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客観とは?/ プロミス

[ 392] くろねこ@国語塾: 主観的VS客観的
[引用サイト]  http://toto.cocolog-nifty.com/kokugo/2005/06/post_e264.html

進学塾講師歴10年、予備校講師を経て教育ジャーナリスト・セミナー講師として活動中。受験国語・勉強法を中心に教育問題について考えたいと思います。
ご無沙汰しています。実は、国語塾とは全く別ジャンルで本の出版が決まったため、6月中は大変追われています。出来上がった本はおそらく、「国語教師のくせに」「ナンだこの言葉遣いと内容は」とお怒りになる方続出の本だと思いますので、また発売になってからこそっとご紹介します。すみません、モノ書いて生きていくというのはそういうことでもあるのですm(__)m
「今日覚えて帰ってほしいのは『主観的』と『客観的』という2つの言葉。対義語やからセットで覚えてな」
「ほんなら聴こうかな。主観の『主』はここに書いた通り『主人』の意味やと思えばいい。自分が主人になったものの見方や。『観』は『観察』とか観るって意味があるやろ。この『自分が主人になって観る』と、気持ちがむっちゃ入るわけよ。えーっとな、じゃあ『にんじん』について、思いつくことをどんどん言ってくれるかな。連想ゲームみたいな感じで」
「よしよし、この中でな『おいしい』と『きらい』に丸をつけてちょうだい。にんじんを『おいしい』と思うのはその人の勝手やんか。世界中の人が『おいしい』って思う保証はないやろ。自分が主になってにんじんを見て出てきた言葉やな。それから『きらい』も同じ。『きらいやわー』と思う気持ちは、自分の気持ちに過ぎないから人に押し付けることもできないし、にんじんが好きな人に失礼やろ。こういう『自分の気持ち』が入った見方を『主観的』って言うねん」
「たとえば、君らはよう先生のことを『オバさん』とか言うてくれるけど、それは君らの『主観』であって、先生は悪いけど自分のこと『イケてるお姉さん』と思ってるワケや。それに君たちや先生の気持ちを全く無視して『25歳』は世間的には『オバさん』とちゃう。ナンなら、家の人に聞いてもらってもいい」
「こういう『だれかの気持ち』を一切抜いた物の見方を『客観的』と言う。お客さんになった気持ちで、外から眺めるねんな。だから『にんじん』のところで出た『野菜』とか『ビタミンが多い』って言うのは、世界中の人に聞いても同じこと答えるはず。こういう『客観的』な物の見方が、大人になるにはむっちゃ必要やねん」
「例のところに『新聞記事』って書いてあるやろ。ある事件が起こった時に、新聞記者が勝手に『俺はコイツが犯人やと思う、きっと悪いヤツに違いない』って書いたら正しいニュースが伝わらない。阪神がボロ負けしたのに『今日は巨人がズルしたから阪神は負けてない』って思い込むのは勝手やけど、新聞に『阪神は10対0やけど負けてないって信じてる』って書いたらマズイやろ。だから『客観的』の代表例は新聞記事を書くときの物の見方。事実や起こったことだけを、ただ書く。絶対に書く人の気持ちを入れない」
「ところで、日記を書いてる人おるか?…何人かいるな。夏休みの宿題で絵日記を書くときなんかに『今日はUSJに行って、とても楽しかったです』と書く時には君たちの『主観』が入ってくるやろ。『疲れた』と思ったらそう書くし、『また行きたい』と思えばそう書く。日記ほど好きに書いていい文章は無いから、主観的な物の見方の例やねん」
「ほんで、最後に少し大事な話をしよう。まずはこの言葉を対義語として覚えることが大事。使い方としては、例文にあるように自分の気持ちを入れれば『主観的』入れない時は『客観的』。『主観的に考える』とか『客観的に判断する』とかそういう言葉とセットになって使われる」
「それで、使い方だけじゃなく、せっかくだからこの機会に『客観的』な物の見方も覚えてほしいねん。自分の『好き』『きらい』『楽しい』『楽しく無い』だけで物を考えるのはアホや。テレビ見て『このタレント嫌い』と思うレベルやったらええけど、身の周りの人にそれを簡単に使うなよ」
「例えばな、K先生って最強に怖いって思ってる子いるやろ。確かに、怒ったら怖いし怪獣みたいな先生やけど『客観的』に考えてみぃ。塾って賢くなるために来てるんやろ。ほんでもって、K先生は君らをアホにしようと思って怒ってるんか?ちゃうやろ、宿題やらな賢くなれへんからやんか。でも君たちは『怖い』先生を嫌う。じゃあ、先生が今から『毎日授業は無しでーす。オヤツでも食べてゲームして漫画読んでていいよー』って優しくなったらどうなる?」
「そうやろ。ちょっとだけな、苦手な人とか科目とかでも『客観的』に考える――つまり、自分の気持ちをちょっと横において考えるクセをつけると、色んなことが見えてきてもう一つ賢くなれると思うで。じゃあ、今日はこの2つをバッチリ覚えて帰ってな」
これと合わせて「主体」「客体」を教えることもあります。最近の子どもや若い人には「客観視をして分析し、冷静な判断をする能力」が少々欠けていると思うので、力が入ります。また、最近の報道はここで教えているほど、実は客観的でない側面もあり、テレビのバラエティめいた報道番組などの怖さを教えることもあります。
私自身も、主観で人やモノを判断して切って捨てたい瞬間も多くありますが、踏みとどまって判断して動いた方が後悔しないような気がします。要するに「感情」だけで処理しないで、頭を使って相手の立場や別の視点で考える。
教師はどんな子どもであっても、「主観」を排除して分析することが求められているので、自ずと鍛えられる日々でした。「この子は〜だ」と主観で決め付けた瞬間に、その子の可能性を発見できなくなってしまう。「客観性」というのは、大人や教師こそが向き合うべき視点だと思っています。
ただ、趣味や好きなものに主観を炸裂させるのも愛すべき美質なので、両方の視点を教えて認めてやりたいものです。子どもが延々と自分の好きなものについてしゃべってるのを聴くの、楽しいですよ。鉄道とかジャニーズJrとか遊戯王カードとか(笑)
非常に勉強になるホームページですね。これからちょくちょくのぞかせていただきます。自分が小さいときにこんな事を教えてくれる先生がいたら、もう少し賢い大人になれたかも?なんて考えてしまいました。

 

[ 393] 不倒城: 「客観」と「主観」の戦闘力
[引用サイト]  http://mubou.seesaa.net/article/2899385.html

一言:ケーナ吹きだったり、SEだったり、ゴーストライターだったりします。日々の戯言とか、雑文とか、ダライアス外伝にかける情熱とかをなんとなく。
「数の力」の誘引というものは強いんだろうなあ、という感がある。「むだづかいにっき」様の話がかみ合わない を読んで、例によって色々と考えた。えっけんさんのおっしゃることは勿論、「そもそも人の話を聞かない人」に関して、主張を全く変えるつもりのない人にとっての「議論に参加する意味」は、他人に自分の考えを押し付けることにありますが、そうした人の多くは、そもそも相手の主張をほとんど聞いて(読んで)いないものですから、あまり長居をされると煩わしいだけです。骨子はこちらであろうし、これに関しては「同感です」という以上の言葉がない。不倒城などは幸か不幸か議論など滅多に起きないのでまだマシだが、むだづかいにっき様など大変だろう。結局のところ、鏡の中の自分の目鼻を見て、非モテの原因となる致命的な部分はどの部位か、とか仔細に検討出来る人でないといい議論は出来ないということではあるまいか。自分に自信を持ち過ぎの男は、一生自分を磨こうとはしないから、結局のところずーっと非モテのまま、とかそういう話なのだろう。だが、「客観的に」とか「周知のことだが」という言い回しは、実は私自身結構使うことがある。この辺に関して自己分析してみたい欲求に駆られた。以下の話は、飽くまで議論における「客観的」という言葉に関する話なので、ご承知頂きたい。言葉狩りをするつもりは全くない。「みんなが思っていること」=「正しいこと」と勝手に解釈しがちです。まず、ポイントはここなのだろうと思う。「客観的に見て」とか「誰しも思うところだが」といった言葉が何の為に用いられるかというと、意識的にせよ無意識的にせよ、自分の言葉に説得力をもたせる為である。こう考えているのは自分だけではない、誰でも思うことだ普遍的だ、という前提が自分の言葉に根拠をもたせる。そんな意識がこういった言い方を作る筈だ。実際、「これは私の偏見だが」などというへりくだった言い方よりは「客観的に言うと」という言葉の方がまだ嫌味がない。無論のこと、ここには多数決の原理というか、「自分ひとりが考えていることよりも、皆が考えることの方が正しい」という共通認識が基底にあるだろう。卑屈といえば卑屈な考え方ではあるが、「主観的に」よりも「客観的に」の方が数の力で強いのである。だが、勿論この「客観的」という言葉には、論理上の詐術というかごまかしがある。文章というものは脳内でこねくりまわしてから書き起こすものである。どんな人でもそうだ。それが他の人の言葉の引用でない限りは、吐き出される言葉は常に「自分の言葉」である、ということが言える。脳内のフィルターを通って自分の言葉として書かれた時点で、「客観的」ということは既に有りえない。幽体離脱でもしない限りは自分を他人の目から見ることは出来ないのだし、テレパスでもない限りは「みんながこう思っている」その内容などわかる訳がない。議論における「客観的」という言葉には実のところ客観性はないのだ。そこにあるのは、「なんとなく数の力がバックにある様に見える」という内容の、説得力のドーピングである。つまり、議論において「客観的という言葉を使いたくなった時は、自信はないけど強く主張したい時」だということを認識する必要がある、ということがまずある。逆にいえば、これさえ認識していれば、「自分の意見は世界標準」という勘違いからは無縁でいられるだろう、とも思う。修辞として使う分にはこれといって問題は感じない。次に、「客観的」の対義語について考えてみる。「主観的」という言葉である。たまに思うのだが、「主観的過ぎる」という言葉は何故悪口として成立するのだろう。いや、勿論ニュアンスは分かるし、どんな場面で使われる台詞かも大体想像がつく。この言葉は、どちらかというと「偏狭」に対する悪口として用いられるものだ。だが、学生時代は日本語をいじくって単位をひねり出していた人間からすると、屁理屈めいた違和感を禁じえない。主観と客観をgoo辞書辺りでひいてみると、主観の方に「自分ひとりだけの考え」客観に「普遍的な考え」みたいな言葉が並んでいる。つまりは、「主観的」という言葉には数の力がついていない。そんなこと考えるのはお前だけだろ、誰も思ってねーよやーい、という風情である。いじめられっこのつもりになって叫び返してみるとすれば、「それで何がわりいんだっ」と私は言いたい。人間がテレパスでない以上、自分の考えを本当の意味で人と共有することは出来ない。思想とか思考というものは、構造的に全て「主観」なのである。やたらと「客観的に、客観的に」という人には、そもそも主観を持っているのか、という意味での疑念を感じてしまう。数の力を捨てて、自分ひとりの考えで戦う「主観」。おお、こうして考えてみると、何となく少年漫画っぽい格好よさを感じずにはいられないのではないか。サイバイマンよりもヤムチャの方が格好いいという原理である。違うかも知れないが。勿論、他の「主観」の存在を受け入れない偏狭な主観ではまずかろうとは思うが、自分が「客観的」であると妙な勘違いをするよりは、自信を持って「主観的」でいる方が格好よかろう、と。私はなんとなくそんな風に思うのである。
面白いのは、そうした「客観的意見」を持ち出す人の中には、自分が求めていた回答と違うことを返されると、すぐに持ち出されるある単語が存在すること。そう「詭弁」です。自分の質問の仕方が悪いのか、あるいは回答者に読解力が無かっただけなのかを問わず、自分の理想とする答えが得られないことで、安易に「詭弁です」と言い出しますが、便利な言葉よのう、「詭弁」スケさんが出す葵の御紋のごとく使われるケースが多いが、実はあの言葉も「客観的にみて」同様、うすっぺらい自己の価値観のみで使用されるケースが非常に多いです。
>えっけんさん>そう「詭弁」です。>「客観的にみて」同様、うすっぺらい自己の価値観のみで使用されるケースが非常に多いです。むう、なるほど。求めていた回答と違うと、という部分がポイントですよね。どーも、「詭弁」にせよ「客観的」にせよ、脳内にしかない根拠が拠り所になっているというのはかなり厄介な状態といいますか。その根拠には客観性あんのか、などと言ってしまうと笑えないですが。でも、脳内完結の議論には正直言って手の出しようがないですね。
しんざきさんこんばんわ。 TAKO@ぽんすです。世の中には、困ったことが起きるとスグ「みんな」に頼ろうとする人もいるワケでして、数的優位な壁に直面すると、改めて「数のチカラは強大だなぁ。」と感じます。 グレーが黒になり、灰色が白になる。 多勢に無勢、ああ無情。上記はあくまで「そういうコトもあるよねー。」という程度の喩え話です。 これ以上書くと、S嬢さんのブログのように、「お前が言うな!」的な藪蛇となってしまいますので控えます。誰だって、たたけば埃は出るものです。 もしそれが誤解だったとしても、お互いに傷つくだけですよ。 (って、ココに書いてもあまり意味ないけど。)本題に戻って、えっけんさんのおっしゃる「詭弁」のほかにも、「それは単なる屁理屈だ。」と言って相手をねじ伏せようとする輩もいます。 本当にへ理屈の場合もあるし、妥当な論理の意見もあります。でもナゼか、「詭弁だ!」とか「へ理屈だろ?」とか言われると、相手も意気消沈するのか反論して来なくなり、「勝った。」となるのでしょう。主張と主張のぶつかり合いを仕切る田原総一朗みたいな人がいると良いのだろうけど、たいていの場合、管理人も一緒になって渦中にのめり込んでしまいます。 でもホントに田原さんがオブザーバーとして参加してきたらイヤだけど。(笑)また、「客観的に判断してどうか?」「論理的に妥当であるか?」という要素よりも「賛同してくれる味方が多いか少ないか。」によって正否が決まることも少なくないと思います。 議題そのものではなく、「誰に付くか」で決まる多数決。そうした経緯もあって、話がかみ合わなかったり、議論がおかしな方向に着地したり、歩み寄りのないまま物別れに終わったりするのかと存じます。というワケで、非モテ系の僕は自分のみすぼらしさを修正せぬまま生涯を終えるのであります。 でわでわ。
>TAKOさんコメントありがとうございます。>困ったことが起きるとスグ「みんな」に頼ろうとする人もいるワケでして、数的優位な壁に直面すると、改めて「数のチカラは強大だなぁ。」と感じます。 おっしゃる通りですね。ただ、議論において「みんな」が持ち出される時、その8割方は実際には存在しない「みんな」である様な気がします。脳内マジョリティーとでもいいますか。>でもホントに田原さんがオブザーバーとして参加してきたらイヤだけど。(笑)いい経験かも知れないけど、ちょっと勘弁してもらいたい状況ですね(笑>議論がおかしな方向に着地したり、歩み寄りのないまま物別れに終わったりするのかと存じます。結局のところ、双方に「歩み寄る気」があるかないか、ということ次第の様に思います。ネットの言論だと、「読まない」ってことが簡単に出来るから、聞かない人には何を言っても無駄、って状況が多い気がするんですね。多分、>「賛同してくれる味方が多いか少ないか。」によって正否が決まることも少なくないと思います。 これもそのせいかと思います。「騒がしい少数者」が存在しにくいってことで、ある意味いいことかも知れないですが。
トラックバックさせていただきました。「客観的意見」や「正論」「常識」に頼らずに自分の意見を言える人は格好いいですね。
しんざきさん自分の論理に陶酔して溺れてしまわないようにしなくてわ。 オレってカッコイイ〜最高にみすぼらしいゼ!>脳内マジョリティーとでもいいますか。「あっ、こいつは脳内マジョリティーだな?」と感づかれないよう注意しながら、「客観的には〜」と書けば説得力も増すのかな。(難しいですけど。)>ちょっと勘弁してもらいたい状況ですね(笑みのもんたさんよりはマシかと思われます。議論の面白さって、相手の意見を分かった上で自分の考えも理解してもらうという「互いに歩み寄れた感」にあると思っていて、ニュータイプでもない限り完全に分かり合えることは不可能だと承知しつつ、今日も明日も言葉(文字)を駆使して誰かと意思の疎通を繰り返し、拳を交えて闘い続けるのが戦士達の悲しい宿命。(←後半は意味不明。)世界中のみんなのエネルギーを集結させた元気玉の威力はかなりのものだ。 と、ベジータが言ってました。(笑)やはり、「客観的には〜」が最強の枕詞なのでしょうかね。以上です。 何度もコメントしてすみません。 でわでわ。
>相手の意見を分かった上で自分の考えも理解してもらうという「互いに歩み寄れた感」にあるとあ。それわかります。私もそう思います。「あなたと私はここが決定的に見解が違うけどお互いこの部分については納得できたよね?」とか、友好的な喧嘩別れというのはできるんとおもんですよね…。
>玄倉川さんTBありがとうございます。なかなか、自分が正論と思ってても言い出せない場面も多いですけどね。あ、ネットだとその敷居が下がるのか。>TAKOさん>相手の意見を分かった上で自分の考えも理解してもらうという「互いに歩み寄れた感」にあると思っていて、同感です。どーも、議論というと「相手を打ち負かす」だと思っている人があちこち見受けられる様な気がするんですよね。どうなんでしょうか。>世界中のみんなのエネルギーを集結させた元気玉の威力はかなりのものだ。 と、ベジータが言ってました。(笑)言い方が悪かったので微妙に回収率がよくなかった様な覚えもあります。 ああ、結局世の中ミスターサタンのパブリッシュイメージが勝つんですよ、という作者のメッセージだったんでしょうか?>以上です。 何度もコメントしてすみません。 でわでわ。いえいえ、参考になるコメントをいつもありがとうございます。今後ともなんとなくよろしくお願いします。
しんざきさん>議論というと「相手を打ち負かす」だと思っている人議論は勝ち負けだとカンチガイしてる人は多いようです。 納得できる意見で相手を「論破」するなら分かります。しかし、論点からズレた揚げ足取りや重箱の隅を突っつくことに終始して、こちらの意見を聴こうとしない輩に閉口していると、「反論しない→オレの勝ち。」または、「コメント削除→管理人の負け。」となってしまう場面が時々見られます。それを楽しそうに眺めているであろうROM観衆も問題と言えば問題なのですが。>世の中ミスターサタンのパブリッシュイメージが勝つんですよそういう読み方も可能ですね。 でも、悟空達はあんまり表舞台に立たないほうが良い気がします。 逆説的ですけど、それが世界の平和だと思うんです。 何も知らずにいる人類は、バカなのか幸せなのか? 裏方さんは偉いよね。 と、架空の物語について問答する私は、ちょっぴりアホです。(笑)>ネットの議論ではなかなか見られない台詞現実の議論でも聞かないかもです。 でわでわ。
>TAKOさん>議論は勝ち負けだとカンチガイしてる人は多いようです。 納得できる意見で相手を「論破」するなら分かります。以前にも同じ様なことを書いたんですけど、その辺が「議論下手」ということの要件のひとつなんでしょうね。どうも、普段議論をしていないと、意見が対立するっていうことが即勝ち負けに結びついちゃう様なイメージがあります。> 逆説的ですけど、それが世界の平和だと思うんです。 いえ、逆説的でもなんでもなく、あーゆーカッ飛んだ人たちは表に立たないことが平和の条件の様な気がしないでもないです。地球が何回滅ぶことやら。

 

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