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[ 353] サーヤ(紀宮さま)の結婚によってインターネット界に起きる可能性のある11の出来事:小鳥ピヨピヨ(a cheeping little bird)
[引用サイト]  http://coolsummer.typepad.com/kotori/2004/11/post_9.html

天皇家の長女紀宮(のりのみや)さま(35)の婚約が内定した。お相手は次兄の秋篠宮さまの学習院時代の同級生で、東京都職員黒田慶樹さん(39)=東京都渋谷区在住。天皇、皇后両陛下は結婚を了承しており、来春式をあげる予定。
関係者によると、黒田さんが秋篠宮家を訪ねた際、幼なじみだった紀宮さまと久しぶりに再会。秋篠宮さまが仲を取り持つ形で、手紙や電話などで交遊を深め、今夏に結婚の意思を固めたという。
……婚約者の黒田さん、本当……いやいや、余計な詮索はやめておきましょう。(柔ちゃんのご成婚のときもはしゃぎすぎて怒られてしまいましたっけ……)。
ところでサーヤといえば、「サーヤと私」という小冊子を思い出します。今はもう売れっ子になられた池松江美(辛酸なめ子)さんが昔作った、「サーヤと自分が親友」という妄想に基づいて、それぞれの小さいころの写真とか、架空の交換日記とかが延々と展開される、レッドゾーンをギリギリ越えちゃってる電波本です。
「皇太子様がこのスレに御興味を持たれたようです。」や「皇太子様がさらに進化なさいました。」を発見してしまうかもしれない
あーんもう超楽しみぃ! いや、ホント目が離せない。彼女は結婚してはじめて、自分がどれだけ国民から愛されていたかを知ることになるわけですよ!
サーヤ、僕らの世界へようこそ! ちょうど「今年の10大ニュース」を選びはじめるこの時に発表とは、その気の遣われ方、恐れ入ります。
サーヤさまって、学習院時代にサムライトルーパーの同人誌を作っておられたたほどのやんごとなきお方ですよ。
天皇家の長女紀宮(のりのみや)さま(35)の婚約が内定した。お相手は次兄の秋篠宮さまの学習院時代の同級生で、東京都職員黒田慶樹さん(39)=東京都渋谷区在住。天皇、皇后両陛下は結婚を了承しており、来春式をあげる予定。
皇籍を離れる女性の毛婚式に両陛下が出られるのは戦後初だそうですが、あんなに可愛がっている一人娘の式に出ないはずがありません。すべては皇室典範に沿って前例踏襲でないと何も出来ない宮内庁の頭の悪さが... >>続きを読む
以前、なめ子女史のサイン会に行こうとしたのですが、風邪で倒れていたのか仕事が忙しかったか税理士試験の直前だったかなんか忘れましたが、行けませんでした。似顔絵を書いてもらいたかったのに。。。
というわけで、有名人にトラックバックを送るのは久しぶりですが、どうぞ世露死苦お願い申し上げます。
... >>続きを読む

 

[ 354] ネットによって可能になった田舎での作家生活/斎藤純さん<1> - 日経トレンディネット
[引用サイト]  http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/col/20060404/116145/

もともとタイプライターのつもりでワープロを導入(1984年か85年だから、これはけっこう早かったほうだろう)したので、パソコンもその延長のつもりだった。ホームページをつくる気もなかったし、ほかの活用方法も考えつかなかった。
それまで、短い原稿ならプリントアウトしたものをファクスで送り、長い原稿は3.5インチ・フロッピーにコピーして編集者に渡していた。短い原稿といってもプリントアウトすれば30枚から50枚にもなる。電話代も馬鹿にならなかったし、何よりも送信する手間と時間が大変だったから、パソコンによって効率がよくなった。あとはせいぜい海外通販(ぼくは1980年代から海外通販を利用している)で買い物をするくらいだった。
パソコンを導入した直後、電子出版の先駆者であるe-NOVELSに誘われて加わり、WEBでの自著販売とエッセイの連載をした。ぼくはパソコン音痴だったので(今でもそうだが)井上夢人さんにずいぶん助けてもらった。そして、このとき、面識のない担当編集者とメールのやりとりだけで仕事を進めるということを初めて経験した。
2001年、13年間暮らした川崎市から、郷里の盛岡にUターンした。インターネットがあるおかげで、別に首都圏に住んでいなくても仕事ができる。盛岡には中津文彦氏や高橋克彦氏ら先輩作家が暮らしていたことも心強かった(ぼくはワープロを導入する際に中津氏からアドバイスをしていただき、オアシスにした)。そういう意味ではパソコンがぼくのライフスタイルを大きく変えたと言っていい。
今ではこちらから原稿を送るばかりではなく、雑誌によってはゲラのチェックもPDFファイルをやりとりしてできるようになった。ファクスに比べると、ずいぶん効率的だ。もっとも、ぼくの頭のなかまでが効率的になったわけではないので、執筆量が増えたというようなことはない(面識のない編集者と仕事をする機会は増えた)。
ぼくはゲームをやらないし、iPodなども持っていないので、現在もワープロ機能とインターネット、それにデジカメで撮った画像とインターネットで収集した情報の保存がパソコンの主な使い道だ。創造と記録と通信の三本柱である。
引っ越しをしてから、インターネットによる通販の利用が増えた。盛岡は人口30万人の地方都市で、文化レベルも高いといわれているのだが、書店に美術や音楽の専門書は乏しく、CDショップのクラシックやジャズのコーナーもひどく寂しい。市内の古書店もめっきり減ってしまった。結局、インターネットで注文することになる。パラパラと立ち読みをして選ぶ楽しみはないが、長く探していた本を古本のサイトで見つけたことが何度もある。DVDもインターネット・オークションのおかげで安く買っている。そういう意味では有効な使い方をしていると言えないでもない。
インターネット・ショップは店舗を持っていない分、商品のディスカウント率が高い。だから、高価なものは東京に行ったときに店舗で実物を確認し、自宅に帰ってからインターネットで買っている。
もちろん、失敗もある。衣料品を買ったときのことだ。届いた品が画像と違いすぎて(というよりも、画像だけではやはり無理がある)、2度ほど返品をしている。ま、この程度の失敗なら、許容範囲かもしれない。
もうひとつの失敗はクラシックギターを買ったときのことだ。これも楽器店で同じものを弾いて確かめた後、ディスカウント率の高いインターネット・ショップで購入したのだが、店舗で弾いた楽器とは別物の感じがした。エレキギターと違ってクラシックギターは、同じ型番でも一本一本違うということを改めて思い知らされた。
毎月出かけるいろいろなコンサートや展覧会での感動体験を綴ったエッセイが岩手めんこいテレビ公式サイト「目と耳のライディング」で好評連載中。また、斎藤純さんご自身のブログも随時更新中です。

 

[ 355] スラッシュドット・ジャパン | インターネットによって私たちの知的能力は低下している?
[引用サイト]  http://slashdot.jp/article.pl?sid=08/06/11/0621247

なんだか人間の能力が広がる魅力的な話に聞こえるが、Carr氏は次のように警告する。 「インターネットは私たちの認知能力に大きな影響を与えている。計り知れないほどパワフルなコンピュータシステムであるインターネットは他の知的技術を包含していっている。インターネットは私たちの地図であり時計であり、印刷機でありタイプライターであり、計算機、電話、ラジオでありテレビでもある。ネットがある媒体を吸収するとき、その媒体はネットをひな形として再形成される。」
ネットに取り込まれた媒体のコンテンツにはハイパーリンクが貼られ、点滅する広告が組み込まれ、諸々の見掛け倒しの機能が付加され、他の取り込まれた媒体のコンテンツで取り囲まれた姿に形を変えるのである。そしてそういったテクノロジーを使う人間の脳は非常に高い順応性を持つため、それらテクノロジーの性質を獲得し機能するよう自身を作り変えるという。
私たちがインターネットに接続する頻度と度合いが深まるほど、理路整然とした深い思考を練る能力を失い、バイトサイズの情報を迅速に処理し、ざっとナナメ読みするようになっていないだろうか? インターネットの広がりとともに、人はどう変化してきて、これからどのように変化していくのだろうか? /.J諸氏の見識をお聞かせ願いたい。
但し書き: コメントはそれぞれ投稿した人のものです。決してわたしたちが責任を負うものではありません。
調べたりすることに時間をとられなくなる分、思考など別の時間に割り当てることが出来ると思います。ちょうど手計算と電卓で計算するのと同じように。(手計算が悪いって意味ではありません。そのとき注目していることの、本質部分かそれ以外の部分かの違い)場合によっては「調べること」それ自体が重要な場合もあり得ますし、インターネットも電卓や計算尺などの道具と同じ、使い方次第だと思います。
コンピュータを使い始めてから,手書きの時に漢字を思い出すことができなくなったことを痛感します.人間の脳はよくできたもので,使わなくなった機能はどんどんと外していくようです.「考える前にネットで調べる」についても同じことが起きているように思います.個人的には「調べずにまず考える」を意識的に実践するべきかと.確かにその場では効率的でしょうが,ネットに解が無いような問題に会ったとき,その対処能力がまったく違うことになるでしょう.
この問題は、教育とか訓練の問題なんだと思います。例えば、二次方程式を解く場合を考えましょう。いきなり二次方程式の解の公式を調べて(教えて)も目的は達成できます。しかし、それだと、なぜその公式が導き出されたのか、というプロセスが抜け落ちてしまいます。そのプロセスを学ばないことの欠点は、他のそれ以外の方程式を解く場合にまったく応用が利かない、ということです。あるいは、公式を調べるのではなく、プログラムを与えても目的は達成できます。が、こちらはさらに応用が利かなくなります。もちろん、最初から応用が利く人は、プログラムを利用しても構いませんが、応用が利く人を育てるためには、教育や訓練が必要です。例えば、二次方程式の公式を自ら導き出してみる、などです。
同意です。基礎教育の根幹である (←と思う) 創造力や洞察力、ひいては目的達成への探究回路形成をスキップして、目前の利益を得るための直接的手段伝授に傾倒した結果のように思えます。教育側、被教育側共に。
タレコミの件もたぶん、ネットが根源的原因、という単純な構図ではないのでしょう。「道具」として扱うキャパのないうちに入手して、それを自らの能力と勘違いしてしまい、「使われている」ことに気づかないまま伸び代を失っているのでは?
以前教え子の一人から「二次方程式が将来何の役に立つの?一生使わなさそうじゃん?」と聞かれて「確かに二次方程式自体はまず役に立たないね。大事なのは二次方程式を解けるようになることじゃなくて、物事の仕組みを理解して受け入れる準備ができること。だから二次方程式とか数学自体が苦手なら、他の何でもいいからとにかく未知を受け入れて、既知と組み合わせて前に進む訓練をしておきなさい。将来何かやりたくなったときのために地盤を整えることができるのは今しかないから。地盤を疎かにして家を建て急ぐと、途中で増築しようにもできなくなるよ。『できないこと』に対して『やらない理由』を探す癖が付いてしまって、常に次を与えられなければ進めない大人になってしまうと、いざ何かやろうとした時に体が動かないんだから。」と説教した覚えがありますよ。かくいう私自身の地盤は怪しいものですが、そこは棚に上げました (笑
確かに電卓使えば誰でも四則演算には不自由しないけど、実際に売り上げや見積もりの数字の羅列から傾向や法則や対策を導くためには計算能力が高い方が有利なんですよ、たぶん。提示した数値からこんなもんですかねぇ、と説明してるのに、暗算苦手な上司は理解してくれないんです。
>調べたりすることに時間をとられなくなる分、思考など別の時間に割り当てることが出来ると思います。そういう面もありますが、悪い面もあります。脳の中に入っている情報と、外部記憶から引っ張ってくる情報では、それを使った思考の反応速度が違います。また、外部記憶から引っ張る(ぐぐる)作業によって、思考が邪魔されます。>ちょうど手計算と電卓で計算するのと同じように。電卓で済むのであれば、九九も四則演算も覚える必要がありません。しかしそれでは済みません。人間の短期記憶は有限ですから、思考の速度が速い/遅いによって、最終的な出力も変わる可能性があります。要するに、ある程度の思考のサブルーチンは、呼吸をするかのようにこなせないと、最初に何を考えようとしていたのかを忘れてしまいます。技術者にありがちな、情報を調べる術さえ覚えていれば、情報自体を記憶する意味は無い、という主張には同意しかねます。
調べたりすることに時間をとられなくなる分、思考など別の時間に割り当てることが出来ると思います。正しいと思います。ただし、「調べたりすることに時間をとられなくなる分」を「思考など別の時間に割り当て」られない人が少なからず居るんじゃないでしょうか?今までは、調べる事で金を稼げていたたものが、そうならなくなります。そう言った仕事をしていた人達全員が思考する事で稼げればいいのですが、実は思考することが不得意な人も少なからず居る、ということが問題になるんじゃないかな。
>## でも最近、どうもシナプス結合がリンク切れで404だったり、機能不全で403だったりが多くてバックエンドの問い合わせ言語がダメなんじゃないですか?I/Oボトルネックとクエリパフォーマンスも疑わしいですよ。#まあサブジェクトが本題
バックエンドの問い合わせ言語がダメなんじゃないですか?クエリはワイヤードロジックで実装されているらしく、特に言語化しないで問い合わせているのですが、強いて言えば「なんだっけ」「えーと、ほら、アレアレ」です。脳が回答できる場合は、これで回答が出てくるみたいです。(その仕組みは謎です)Google検索する場合はWHERE句が必要なので、どちらかというとそちらの方が頭を使っているかもです。「もしかして」機能ができてから、Googleは脳に一歩近づきました。これでまた、もうちょっと脳がバカになっても平気。誤変換しても検索できるって素敵過ぎます。
んー。どうなんでしょうね?たとえば、昔の知識人というものは、古典をそらんじているのが当然でした。四書五経から何かを引用しながら自説を説いたり、ラテン語の警句を混ぜてみたり、聖書の言葉に沿って何かを言ってみたり。印刷術の普及によって古典の丸暗記というものが必ずしも必須の条件ではなくなり、そしてさらにインターネットの普及によってこの書き込みの表題のようなラテン語の警句を三分前にググって知ったくせに「私前から知ってましたけど何か?」というような顔でコピペすることが可能になりました。果たして、それは知的能力の衰退を意味するのでしょうか?私はそうは思いません。ググるという行為は、暗記という作業をアウトソーシングしたにすぎません。そもそも知らなければググれないんですから。うっすらとインデックスのみを覚えておけばいい、という程度の記憶なら人間はもっとたくさんのことを知れますし、覚えられます。「じゃあなんでこんなバカが増えたの?」という人もいるかもしれません。しかし、それは逆なのです。たぶん。暗記にせよ本の購入私有にせよ、それは一面ではハードルなわけです。かつては働かなくても生活ができ、日がな一日書物の暗記に没頭できるような人々しか知識人にはなれませんでした。高価なランプの下でずっと本を読めるような一部の人々しか知的活動はできませんでした。論文を書いたり雑誌に寄稿したり本を出版したりするようなことも、経済的なハードルが大きかったでしょう。しかし知識の収集・検索ということが「暗記・本の所有」というハードルから開放され自説の開陳・発信という行為がインターネットで極めて簡単になされる昨今は、かつてはフィルタリングされていたバカが発言する場を得たので人類は総じてバカになったように見えるだけでしょう。人類の利口/バカ比というのは大して変わってないと思います。かつては「カネがあって、本を暗記したり読んだりするような苦痛に耐えられるような利口なひと」しか発言できなかったのが、技術の進歩により誰もがそれができるようになった、というだけの話に思えます。
技術の進歩によりバカが発言できるようになっただけなら良いが、そのバカの発言も尊重しなければならないため、社会全体がバカのために奉仕しなくてはいけなくなった。もっとも、一部の利口を装ったバカのために社会全体が疲弊するほど奉仕させられたことも一度や二度ではないのだから、これも民主化の暗黒面と諦めて受け容れるしかないのかな。
うっすらとインデックスのみを覚えておけばいい、という程度の記憶なら人間はもっとたくさんのことを知れますし、覚えられます。ポイントはその辺りだと思います。「うっすらとインデックスを覚えて」いれば十分、という知的活動もあると思いますが、ある分野に特化した深い知識の集積の上に成り立つ知的活動もあるとおもいます。例えば、simonさんも挙げられていた論語。朱熹や王陽明は論語の解釈を深化させ、独自の体系である朱子学や陽明学を起こしました。これは、インデックスのうっすらとした記憶と外部記憶では成し得なかったでしょう。おそらく、彼らは丸暗記するほど論語を読み込んだはずです。また、孔子を題材とした小説は多数存在しますが、その中の優れた作品は、論語はもちろん、大量の研究書を読み込んだ上で書かれた筈です。もちろん、そうやって生み出された体系・小説に対して「うっすらとインデックスを覚えて」いれば、それなりに偉そうな顔はできますが、自分で新たな体系・小説を生み出すことはできないでしょう。
「外部に膨大な知識DBがあれば脳内にはインデックスだけあれば十分」と学生の頃私も以前そう考えていました。「これからは答えがググれる世界。知識なんて覚えるだけ無駄、医者も弁護士も商売あがったりだね!」と。そうやって「意識して記憶する」という努力を怠りながら知識のつまみ食いだけを続けること数年、最近どうにも限界が感じられるようになってきました。調べ物していて、深さ優先で探索中にスタックの戻り先ポインタ失って「はて何を調べていたっけ?」となることなどしょっちゅうで、間違ってブラウザを閉じたり、あるいはブラウザが落ちたりすると何のためにどのページを見ていたのかすらも、みるみるおぼろげになってしまうこともしばし。何か複雑な思考に耽ろうにも、考えているそばからキャッシュ・ミスヒット連発で逐一メモを取らないと思考の本題を見失うのではないかという心配しなければならない始末。まるで自分という存在が、現在という一瞬一瞬にのみ存在している一次元セルオートマトンに思えてきたり、あるいはメモリの少ないPCが、何をするにも逐一HDDにアクセスしてガリガリと音を立てつつちっともアプリが動かない様子にも似ていると思えたり。知識をアウトソーシングしすぎると、何をするにもバックエンドDBとの通信が必要な中身のないシンクライアントみたいな人間になってしまいます。バックエンドDBとの通信には必ずオーバーヘッドがあるわけで、知識をオン・メモリで持ってる人に比べパフォーマンスに雲泥の差があることを痛感します。せめてサマリというキャッシュだけでも意識して記憶するようにしないといけないと思っているのですがどうにもこうにも・・・。# もしかしてこれが歳のせいというやつ・・・なのか・・・orz
ネット、そして強力な検索エンジンにより、データなどを調べるには便利になりました。以前なら図書館などで資料となる数字や記述を見つけると、再びアクセスするのが面倒なので、自分のノートに書き留めたものです。そこで、読むという行為に加え、書くという行為が加わり、記憶がある程度強化されていました。ところがネットの時代になり、データへのアクセスが便利になったため、書き留めるという行為が少なくなっていったように思います。そのためか、自分を振り返っても、細かい数字や年代などを以前より記憶していないように感じます。しかし、これは半面、(それが信頼できるデータであるという前提ですが)正確な数字を引用するたびに、調べ直すのですから正確を期せますし、データを覚える時間をそのデータを吟味する時間に回せるというメリットも生じます。ネット時代に進んだ「記憶の外部化」とはこういうことではないでしょうか。問題は「思考の外部化」も起きていることです。僕はライターの傍ら、編集者の仕事もしていますが、原稿をもらうと、その一部を検索窓にコピペしてググることにしています。以前に僕が担当しているのと別の媒体ですが、ネットからの引用ではなく、引き写しとしか言いようのない記事があったからです。文章構成は思考そのもの。どう考えても倫理的に(下手すりゃ法的にも)問題があります。思考の外部化はプロがそれを行うと、自分の仕事を失いかねない自殺行為となります。でも、それが致命的な行為にならない人、例えばブロガーやBBSの投稿者には、思考の外部化をしている人が少なくないように思えます。とくに「自分が信じたいような内容」については、その傾向が強いように感じます。本来なら、記憶を外部化して余裕ができた分、思考に回せば、深い思考ができるはずが、その思考までも外部に頼ってしまう傾向が出てきているように感じます。そういう意味では知的能力が低下しているのかもしれません。
別に昔から調べた結果覚えることってのは、よほど頻繁に使う内容でない限り、「何の本のどのへんに載ってるか」でした。それが今は、「グーグルで何て検索したか」になっただけ。大して代わらない気がします。しかも、本だと何度調べても同じだけど、WEB検索だと調べるたびに情報が変わって刺激的だったりします。
言ってることはポンペイの落書きと変わらないのではないかと思います。ネットは(あるいはGoogle一社が)様々な媒体を飲み込んでいくことの危険性は、また別にありますが……。
ええ、しかもこれは年寄りの戯言だけの話じゃなくて、今日ではインターネット全体が落書きみたいなもんですよ。でもね、それに輪をかけてヒドいのが、このネットというものを、・落書きだと分っていないで見ている人がいる・自分の書いた内容が落書きだと気付いていない、みんなに見られてるとは思っていない人がいるということなんですね。かく言うこの内容も落書きの一つですし、こんな考えも私の脳が考えたことじゃないんですよ、きっと。これなんてネット上に普遍的に存在する現象を要約してるようなもので、ある意味ネットという集合無意識みたいなものが私を通じて書かせているんです。えーと、というわけで私が誰だか知りませんか?
サブジェクトは私が勝手に作った言葉です。インターネット、特に検索エンジンというものが登場して以来、個々の頭脳への知識の集積は徐々に意味を失いつつあります。最近は、検索エンジンの力により、ググることさえ出来れば、誰でも情報にたどり着けるようになりました。最近では、わからない言葉はとりあえずgoogleにでも放り込めば、何らかの情報が得られるようになってきています。つまり、インターネットはあまりに便利な百科事典になってしまったのです。これは、ある意味自分の内部に記憶できないものを、常にネット上に保持しているいわば外部記憶のような役割を示しています。この外部記憶は本人の意思に関係なく、絶えず変化しているというのも大きな特徴です。このような便利な外部記憶をもつと、人は内部記憶への情報の記憶量を減らし、必要な時に外部記憶から情報を引っ張るようになります。これが「何でもネットで解決しようとする」という行動の大きな特徴です。これにより「知の内部蓄積」による内部での知の融合発展が進まなくなり、「考える」人を減らしてしまいます。さらに進むと、ネットで検索して情報を得ただけで、「わかった」気になってしまうようになってしまいます。思考にリンクしない情報は、すぐにキャッシュから追い出され、消滅してしまいます。もうひとつの問題は、調べようとしない存在を大量発生させたことです。インターネットでは、時空を超えたコミュニケーション(のようなもの)が成立します。そこにおいて、知識を持たないものが、持つものに安易にたずねるという傾向が生まれました。検索しても出てこない、わからないことに対して、答える人がいる以上こういう「ググレカス」といわれる人々は増加し続けます。こういった人々は、本来、ネットがあろうとなかろうと、調べなかった人たちなのです。彼らにとっては、ネットで尋ねることは、googleの検索結果より手っ取り早いのでしょう。
こういう話があると、アインシュタインの「本やノートに書いてあることをどうして憶えておかなければならないのかね?」という名言を思い出す。結局のところ、重要な情報と重要でない情報の取捨選択の問題と、情報を保存するメディアの取捨選択の問題、思考する能力の問題がごっちゃになっている。「現在ではググってしまえばいいので、本当に必要な情報のみ自身の内部に記憶しておけばいい。必要なら外部記憶装置から検索して引っ張ってくればいい(攻殻機動隊の世界のように)。」と考える人間は肯定派になり、そうでないものは反対派になるというだけの不毛な議論でしかないようにも思える。いつの時代も教えて君は居るものだし、一を知って十を知ったつもりになる者も同様。
みんな知識はいっぱいあると思う。難しい漢字や言い回しを知ってたり、いろんな雑学に通じていたり。即席でぐぐってるのか、ふだんのネットサーフィンを通して雑学がたまってるのかは区別がつかないですが。一方で、それらの知識を組み合わせて推論したり別のことに応用したりといった思考力については、驚くべき知識量からは想像もつかないくらいの低さを示しているように感じてます。ここ数年、思い続けていることです。
そんなこと言いましても、小説だろうとなんだろうと斜め読みするときは斜め読みでしょう。「普段読むテキストの性質が変わったから一概に同じとはいえない」と言われれば、全く以ってその通りなのですが、それが本当に思考していないことに繋がるのでしょうか?一字一句、完全に認識して読んでいるかと言うと、どんなに注意して読んでいてもそれは在り得ないのでは?人間の脳の補完能力は素晴らしいです。誤字脱字だらけでも、ある程度のものは瞬時に変換してさらっとスルーできてしまいます。また、見掛け倒しの機能や広告がそこまで悪影響を与えるかというと甚だ疑問です。確かにWeb環境の悪化は招きますが、自ら広告に飛び込もうとする人たち以外の脳に与える影響なんてせいぜい呆れや苛立ちがいいところ。いちいちバカみたいな広告を全部読んで、それに皆が影響されるのでしょうか。「本屋の近所を広告車両が毎日通ると、その本屋の常連はバカになる」って言ってるようなものです。騒音が気になる人は別の本屋行くでしょうし、気にならない人はそんなことじゃバカにはなりません。確かにWeb上のテキストになったとき、いろいろなものが変化します。初期の話ですが、Web小説が出てきたとたん、「章」ではなく「文」で改行を入れるようになりましたよね。今では個人が書くHTMLの質も圧倒的に向上し、blogも一般化したため、その傾向は落ち着きましたが。ネットを雛形に再形成されたものは、確かにそれまでの常識にそぐわないものでしょう。ですが、それはネットに限りません。大正期前後に何度目かの大きな日本語の変化があり、近代文学が幕を開けましたが、それは知的能力の低下でしょうか?確かに現代人は古い日本語を使いません。使えないと言っていいでしょう。そうして言葉が変化したとき、恐らくば人の価値観や思考回路は変わります。言語は思考と密接に関係している、とも言われますし。ですが、知能レベルが変わるのか?私はそうは思いません。言語を含め、文化とは蓄積です。必要に応じてモノが生まれ、不要にならなければ(又は代替が生まれなければ)それは失われないでしょう。Webによって新たな価値が生まれたとするなら、紙媒体が喪失されるまでは、我々は二つのスタンダードで物事を考えられる。そう考えると、これは決して知的能力の低下とは言えないのではないでしょうか。
メッセンジャーとかで喋ってて、なにかこっちが知らないことを言う度に検索かけて調べながら話そうとする人がいますけど、知らないなら知らないで違う話題を振るからワザワザ知ってるフリしなくてもいいよと思ったりはしますな。ネットにあるのは二次情報、三次情報だったりするんでいろいろ変わってくるし。
思考のネタとしてググるのは良いとしても、結果となる答えをググることが多ければ指摘は当たってるんじゃないかと思いますね。難しいことを考えるよりも、検索すればそこに答えがある。・・・なんて事に慣れていると、そりゃ低下もするわな。
同じような話で、昨今の書籍は答えがそのまま載っている、いわゆるノウハウ本の類しか発行されなくなってきました。というのも、そういう本しか売れないからなんですけど。おかげで、ある分野を勉強しようとしたとき、包括して説明するような良い本が発行されておらず、古い本を(たいてい絶版だから古本屋などで)探すか、まだ多少は残っている海外の本に頼るしかなくなってます。もちろん、ソフトウェア等新しい分野はそれほどでもないのでしょうが、古くからある分野ほどこういう傾向が目立っていると思います。(でも昔はオブジェクト指向の原点みたいな本があったけど、最近は見かけない気がするな)#ええとつまり何だ、ネットに関係なく、人類が馬鹿になってきているってことか。
ウェブに接続されているストレージの記録が自分の記憶になったのならば、求められるのは記憶力ではなく必要な情報をリンクする能力になるんじゃないでしょうか。シナプスつなげるように電子情報をつなげるという。
たとえすべてを知っていてもそれを活用する術がなければ意味が無いので、基本である思考力を訓練するこれまでの教育が無意味になることは無いでしょうなぁ。
現在の「すぐに情報にありつける」という環境が「活用する術」を退化させているのは間違いなさそうですが、それってキーボード見ながらタイプするのは最初のうちはブラインドよりも効率がいいけど、最終的にブラインドを訓練していたほうが効率がいいのに似ている気がします。Wikipediaをはじめとするウェブの資料をコピペして論文書くようなのは、そのうちよく訓練されたウェブのブラインドタッチが出来る人間に圧倒されるんじゃないかな。
「あなたの御計らいはわたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多くその果てを極めたと思ってもわたしはなお、あなたの中にいる」と言ったところで、それがどういう歴史的文化的背景とリンクしていて、文字以外にどのような意味があるのかは「言っただけ」では理解できてないでしょうし。
世界を変えるほどの影響を与えるものは常に諸刃の剣であるなんていっているあいだに利点と危険な点を知る知らせる行動はやはり必要利点ばかり見ていると間違いなくアホになるわん
個人的な感覚ですが、「精読」するときは、やはり紙媒体の方がうれしいと感じます。そして精読の結果、その文章が直截には指摘していない事柄Aと事柄Bの関連にフッと気づいたりします。
同じことがネット上のテキストから生じることもあるのですが、あくまで感覚的なものですが、書籍を精読しているときのほうが生じやすいように感じます。
こうも言えるかも知れない。僕は蔵書を時々読み返します。読み返すことで、当時は理解できなかったこと、読み飛ばしていたことを検証できるからです。再読の結果実りの多かった書籍は、三読・四読の対象に格上げされていきます。しかし、ネット上のテキストで繰り返し読み直しているものがあるかというと、まったくないわけではないものの、圧倒的に少数です。
これは書籍で育った僕の感覚に過ぎないかも知れないけれど、僕の感覚ではハッキリとネット上のテキストは「精読」に向いていません。ネットに頼って学生生活を送った人は、僕よりも「精読」の体験が少ないかも知れません。わからないけどね。
「携帯メール依存」だから出会い系に落ちる [gendai.net]こういう記事を読むと、携帯電話によって、重要な義務教育期間の知的能力に悪影響を与えると思いますね。一日に50通以上のメールとか、メールは3分以内で必ず返すとか、携帯電話を取り上げると暴力をふるい始めるとか、親も学校も不甲斐ないという気がします。それに比べると、インターネット(というかWeb)の方が影響は、まだ軽微かと。
知識のアウトソーシングと思考のアウトソーシングは別物でしょう。現在インターネットで行われているのは知識のアウトソーシングに過ぎない。依然として思考自体は外部化されていません。まあ、本来は思考の過程で導かれる結論も知識として溢れているので、訓練する場が減っているのは事実。その辺はは思考の訓練を別途することで解決するべき課題ですね。思考力のある人が、巨大な知識ベースを使える価値は非常に大きいので、上手く活用していきたいです。

 

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