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かかるとは?/ プロミス

[ 263] おたくのかかる病気
[引用サイト]  http://websphinx.net/manken/labo/clmn/j_byoki.html

ここで言う「おたく」とはマンガ・アニメおたくを指します。「おたく」の定義はよく解りませんが「自分はマンガ・アニメが大好きである」と宣言できる人たちとしましょう。その彼らがマンガ・アニメを楽しむためにこの世界に入ったにもかかわらず、時としてマンガ・アニメを全く楽しめない状態におちいる時があります。それには様々な原因があるようで、僕はそれを「おたくのかかる病気」と総称して以下に思いつく限り書き出してみました。“病気”などと物々しく書いてありますが、それほと深く考える必要はないです。(変に意識し過ぎてこれから逃れよう逃れようとすると別の穴に落ちることも多いです)「どうも最近何を観てもつまらない」と思ってる人がちょっと視点を変える手助けになれば幸いです。
絵柄病 マンガ・アニメで自分の好みの絵柄やデザインでなければ、その作品を見向きもしない状態。実は普通の人間の普通の行為で『病気』でも何でもない。また、マンガなどは普通一生を費やしても全てのマンガに目を通せるワケでもないし、読むマンガを選ぶのに“好みの絵柄”を基準にしても何の問題もないとは思う。…思うんだけど、流行り廃りのある絵柄やデザインに振り回されて、せっかくの名作に出会えないのはもったいないので、それを恐れる気持ちを持って欲しくて書いた。また一定の絵柄は同じジャンルしか観ない「ジャンル病」につながる場合もある。元々マンガ・アニメの絵は何が起こってる分ればそれで十分で、絵で“それ以上の何か”をやってきたら改めて加点していけばいい。
<愚痴>絵が下手でも面白い作品はある!…ということを目撃しても染み付いた感性はなかなか拭えなかったりする。結構不思議ではある。
ジャンル病 SF、ラブコメ、ギャグ、バトルもの、そしてガロ…といった読むものが一つのジャンルに集中して他のジャンル、特にそのジャンルの「対」になるようなものを「ほとんど」読まない状態(全く読まないって人はかなり珍しくはあります)。あるいは「このジャンルだけは大嫌い。絶対に見ない」というもの。実はこれも『病気』ではなく普通の人間の普通の行為。しかし、やっぱりもったいない。「対」になるようなものを意識的に読めば、それだけで視野が広がるのに。これが進んで、「一つの作品かあるいは一人の作家」だけ、ということになると、だいぶ「おたくのかかる病気」の域に入ってくる。「ジャンル病」は本人が全く自覚して無いことも多い。気がつけば似たようなパターンの作品しか観ていない。ということはよくある。
<愚痴>実はジャンル病が『病気』などと判断するのは「おたく」だけ。普通は読む作品の傾向にバランスを求める方がはるかに『病気』。でもジャンルなんてアバウトな分類法で、ほぼ例外なく別のジャンルと融合してるので、全ての方面をフォローするために「おたく」的にはいずれ必要になる。まるで違うジャンルの融合を見せられ“自分の嗜好してないジャンルの部分”を「世界観が台無し」とか言って嫌ってしまうということも多い。
崇拝病 ある一つの作品に「最大級の衝撃」をうけ、その作品中心に物事を考えるようになる症状。世界に対する視点が画一的になり「その作品そのもの」か「その作品に関係したもの」か「その作品にまったく関係無いもの」の三つにしか分類しない。(これは何も「作品」に限ったことではないが、ここはあくまで作品批評HPですので…)これは別に悪いことではない。何か一つの作品を大好きになるというのは素晴らしいことで、それなしに「深い」ところに行く方法を僕はあまり思いつかない。上記の「三つの分類」も思考を整理するうえで最初に簡単に作れる「引出し」といえる。是非とも「そこ」を足がかりに他の世界も見に行って視野を広げて欲しい。ただしあくまで一つの作品に固執している状態は『病気』には違いないので早く脱した方がよい。
<愚痴>「デビルマン」に多大なる影響を受けた僕は「寄生獣」を見ても「エヴァンゲリオン」を見ても第一声が「デビルマンじゃん」だった。ちなみにどちらの作品もストーリー、ラスト、共に「デビルマン」とはまるで違う。とりあえず比べられないほど大好きな作品が三つも四つもできてしまえば「崇拝病」にはならない。時間と意欲的経験の問題。
懐古病 いつのどんな時代の世間にもある「昔は良かった」の延長にあるものだが、フィクション世界的には様々な要素がからむ。「最近面白いマンガねえなあ」と愚痴ることが主な症状。あるいは経験の積み過ぎで「あらゆる新作がそれまでの作品の焼き直しにしか(極端な場合パロディにしか)見えない」といった事も起こる。大半は受け手本人の“感受性”が固まってしまっていることが大きな要因。とにかくこれを脱するのは固まってしまった自分の視点を変えるため努力がいる。あるいはそのまま作品を観ることを止めてしまうことの方が多いか?感受性が固まっていることを無視して「自分が正しい」と思ってしまえば脱出不可能。
<愚痴>とはいえ僕も今と昔どちらが良かったかと聞かれれば「昔の方が良かったかなあ…今も捨てたもんじゃないけど」という答えになる。客観的に考えてこの答え。説得力なし。しかし要するに感受性が老朽化してしまうのがダメ。あるいは現在「懐古病」じゃなくても“現在”だけに生きている「おたく」は気をつけよう。昔の作品が楽しめない者は未来の作品を楽しめなくなる可能性も高い。
マイナー病 長く「おたく」を続けていると、ある無名の作品に対し「ぼくが最初に発見した」「ぼくだけが知っている」「ぼくだけが気に入っていた」という“錯覚”にとらわれることがある。その作品の人気が上がってくると「やれやれ、世間はやっとこの作品の面白さに気づき始めたか。ぼくなんか最初から目をつけていたもんね」と悦にいるわけである。この快感が忘れられず、勢い「誰も目をつけてない場所」というのが作品に対する価値基準となりはじめると、もはや『病気』の域に入ってくる。マイナーな情報であることそのものに価値は無く、あくまで「有効な情報」であるかどうかなのであるが、それはそれでいいと言おう。日のあたらない所から秀作、良作を発掘してきて他人に紹介するのは立派な業績である。しかし『マイナー病』の患者の最終的な難点は「人に理解されない言葉を発して喜ぶ」という症状にある。「マイナー」であることに最大の価値をおいているために起こる弊害であるが、相手の方がうんざりしてしまうと実のある会話が難しくなる。
<愚痴>歴史者や登場人物がやたら多い物語の話題で、誰も知らないような人物のファンだとか言い出すと、だいぶこの「気」がある。結局、マイナー志向にはそれ程の問題はないのだが、何故か「おたく」でコミュニケーションが恐ろしく下手な人が、まるで自己肯定するかのようにこの病気にかかってることが多い。あるいは逆なのだろうか?
潔癖病 (多くの場合映像作品で)テーマ、ストーリー、コンテ、結末、(そして予算)その他あらゆる面で、作品に「完璧」さを求め、そうでない作品は一切認めない状態。『マイナー病』はB級・C級映画をやたら喜んだりするが、『潔癖病』はA級か上質なB級しか見ない。この『病気』(実はやっぱりこれも『病気』とは言い難い)の一番の問題点は「自分はただ『質の良い』作品が好きで、そうでない作品は何にせよ批判を受けるべきだ」という理屈が何ら間違っていないところにある。その自分が何故『病気』などと指摘されなければならないのか、心外もいいところだろう。ただ、もったいないと思うのだ、世の中にある作品の九割以上を淡白に切り捨ててしまうのは!完璧な作品は完璧ゆえに同じようなラインを描くことが多い。逆に不出来な作品はバランスが崩れてるゆえにある一つの面が突出してることが少なくない。またクソな作品のクソな面を思い知ってこそ、名作の名作たる所以をかみ締めることもできる。
<愚痴>実に当たり前の話かもしれないが本質的に真面目な人が「潔癖病」にかかりやすい。また上に挙げた「懐古病」の変形のようなもの。言葉通りの内はそれほど問題はないのだが世界の広がりを閉ざしてしまう可能性が高い。
設定病 SF考証、時代考証といった作品世界のリアリティを補強するための「設定」を一番の価値に置いている症状。物語の端々に現れるギミックや小道具が、存在か可能か考察し満足が得られなかった場合、「もっと勉強しろ」の一言で切り捨てる。「巧いウソ」が好きで「力技のウソ」が嫌いとも言える。結局専門家や素人、人によって満足の得られるボーダーは全然違ったりするのであるがそれを理解していない場合が多い。変にマニアックな設定の作品や、説明過多、ひどい場合は別冊から得る情報で構築された作品の「ジャンル病」にもなりやすい。
<愚痴>『面白い』『つまらない』といった漠然とした感性よりも、白黒ハッキリつけれるので「SF考証」「時代考証」のチェックに走る「おたく」はとにかく多い。しかし「SF考証」「時代考証」の整備などというものは『面白さ』の外堀以上のものでは断じてないことを胆に命じるべき。
テーマ病 人を革新させるに足る『テーマ』を持たない作品は「低俗な」作品と判断する。あるいは設定された『テーマ』が自分の「哲学」にそぐわない場合、やはり同じように「人間の真実をついていない」作品と判断する症状。真実を探求するならそれもいいので特に言うことは無いのだが、ただ、フィクションにとっては「真実」も数ある『面白い』ジャンルの一つに過ぎず、絶対不可欠なものではない。むしろ『面白ろ』がってもらうためなら「ウソ」も平気でつこうというものなのだ。「人は死ぬ」という「真実」よりも「もしかしたら生き返るかもね」という「ウソ」の方が観客に楽しんでもらえると判断したなら迷わず「ウソ」をとるのがフィクションなのである。
<愚痴>よく「風の谷のナウシカ」は一般に自然破壊の警鐘映画ととらえられてるが、よくよく観れば「人間ごときに地球がどうにかできるものか」と言ってる事が分かる。さらによく観ると、自然環境などどうでもよく「いかにナウシカをかわいく美しく活躍させるか」というところに全神経を集中してることが解ってくる。何かテーマっぽいけど真のテーマじゃない部分。これを僕は『仮面テーマ』と読んでいる。「ナウシカが可愛かったから自然の大切さを学んだ」と考えることはできないだろうか?とにかく娯楽にとっては「真実真理」なんて二の次三の次なのだ。「真理」ばかりを追いかけていると『面白さ』を逃す。
ダーク・サイド・フォース まず「その作品を貶めたい」という感情を根拠に、積み上げられる『理論武装』の事。あるいはこれまで挙げた様々な『おたくのかかる病気』を守り、正当化するための『理論武装』の事。作品を正しく分析、批評しようとする段階で“転んで”しまう事が多い。つまり自分の視野を広げて思考を柔軟にするための行為が、かえって思考を硬直させる逆の結果を生むことがある。「そんな理屈を積み上げて現在の正当化だけに固執しても、それは結局自分のためになってないのではないか?」と思える時、それを『ダーク・サイド・フォース』と呼ぶことにした。プライドの為に間違ってると分ってる自分の意見を言葉を弄して正当化しつづける行為などはその最たるもの。自分の気に入らない作品の存在を否定したくて、細かい欠点を拡大してあげつらったり、客観的理論を求めるあまり自分の思考を理屈ばかり先行させた『マニュアル脳』に自ら望んで改造したり、結局人間の頭脳は柔軟さを失うと、理論のために理論を積み上げてるのと変らない状態となる。だって“結論が先に出てて”意識的にしろ潜在的にしろ“違う結論”を出す気がなくなってしまったら人間の思考はそこまでなのだから。
<注意>そもそも、この論文自体が『ダーク・サイド・フォース』になるのではないか?という疑念を持つ人は多いと思う。現象を分類するだけで『マニュアル脳』となる危険は常に付きまとし、この「おたくのかかる病気」を他者の“攻撃”に使えば、それだけで『ダーク・サイド・フォース』となり得る。あくまで内省的に用いるべきだし、ここに書かれた理屈の反論はいつでもお待ちしています、としか言いようがない。

 

[ 264] Teach Yourself Programming in Ten Years 日本語訳
[引用サイト]  http://www.yamdas.org/column/technique/21-daysj.html

結論としては、誰もがコンピュータについて学ぶのに大わらわであるか、さもなくばコンピュータというものが、他のどんなものより、学ぶのがどういうわけか信じられないくらい易しいということになる。だって数日や数時間で学ぶベートーベンやら、量子物理やら、犬の調教といった本は皆無だもの。
学ぶ:3日間では、いくつか意味のあるプログラムを書いたり、その過程での成功や失敗から学ぶ時間などありはしない。経験を積んだプログラマーと一緒に作業を行い、そうした環境における生活がどういうものかを理解する間もない。早い話、大したことを学ぶ時間がないということだ。よってそうした書籍は、うわべだけ精通することについて説くばかりで、深い理解にはつながらない。アレキサンダー帝が言ったように、生兵法は怪我の元なのだ。
研究者 (Hayes, Bloom) によると、チェス、作曲、絵画、ピアノ演奏、水泳、テニス、そして神経心理学や位相幾何学の研究を含む、広範な分野のいずれについても、専門技術を身につけるにはおよそ10年かかるそうだ。近道など実在しないようなのだ。4歳にして音楽の神童だったモーツァルトでさえ、超一流の楽曲を作り出すまでに13年以上を要している。別のジャンルになるが、ビートルズが突如現れナンバーワンヒットを連発し、エド・サリバン・ショーに出演したのは1964年だった。しかし、彼らは1957年からリバプールやハンブルグの小さなクラブで演奏していたわけで、また彼らは初期から大衆の支持を獲得したが、彼らがはじめて批評的にも大きな成功を得た『サージェント・ペパーズ』がリリースされたのは1967年である。サミュエル・ジョンソン[訳注2]は、「どんな分野であれ、生涯にわたる努力なくして優れたものには達し得ない。それよりも安い代償で手に入れることはできないのだ」と、それには十年以上かかると考えた。またチョーサーも「人生はとても短く、技を習得するにはとても時間がかかる」と嘆いている。
プログラミングに興味を持ち、それを楽しみのためにやること。それが十分に楽しいことでありつづければ、十年でも喜んで続けるだろうから。
他のプログラマーと話をし、他人のプログラムを読むこと。これはいかなる書籍やトレーニングコースよりも重要なことだ。
もし望むなら、四年間大学で(あるいは大学院に行き、更に)学ぶこと。そうすれば成績証明書を必要とする職に近づけるし、その分野についてより深い理解を得ることになる。でも、学校を楽しめないのなら、(熱意があれば)仕事をやる過程で同じような体験を得ることはできる。いずれの場合にせよ、本による学習だけでは十分ではない。「コンピュータ・サイエンスの教育で誰かをプロのプログラマーにしようとするのは、ブラシや絵の具について学ばせてプロの画家にするのと同じくらい難しい」と『The New Hacker's Dictionary』[訳注5] の著者である Eric Raymond は言っている。僕がこれまで雇った中で最高のプログラマーの一人[訳注6]は、高校までしか出てなかった。でも、彼はたくさんの素晴らしいソフトウェアを作り、今では自身のニュース・グループを持ち、ストックオプションのおかげで自分のナイトクラブを買うぐらい稼いだ。
プロジェクトで、他のプログラマーと一緒に働くこと。いくつかのプロジェクトで、一番のプログラマーになるか、そうでなければしんがりのプログラマーになること。あなたが一番なら、プロジェクトを指揮し、他の人達にあなたのビジョンをふきこむ能力を試す機会を持つことになる。あなたがしんがりならば、達人がやることを学び、彼らはどういういうことをやりたがらないか知ることになる(そうしたことはあなたにやらせようとするから)。
他のプログラマーの後についてプロジェクトに関わること。人が書いたプログラムの理解に取り組むのだ。元のコードを書いたプログラマが近くにいなければ、そのプログラムを理解したり、直すには何が必要か考えること。あなたのプログラムを後で他の人がメンテナンスしやすくするにはどうデザインしたらいいか考えることになる。
「コンピュータ・サイエンス」の中に、「コンピュータ」があるのを忘れてはいけない。コンピュータがひとつの命令を実行したり、メモリから1ワード読み出したり(キャッシュに入っている場合とそうでない場合と)、ディスクから連続してデータを読み出したり、ディスク上に新しいロケーションを探したりするのにどれくらい時間がかかるか知っておくこと。(答えはこちら)
言語標準化の作業に加わること。それは ANSI C++ 委員会かもしれないし、身内でのコーディング・スタイルについて、インデントの空白を2文字にするか4文字にするかといったレベルを決めることかもしれない。いずれにしろ、他の人がプログラミング言語のどんなところを好きなのか、どれほど深く好きなのか、そしておそらく何故そんなに好きなのかってことも少しは学ぶことになる。
以上すべてを考慮すると、本で学ぶだけではどこまで習得できるか疑わしいものである。最初の子どもが生まれる前は、私はハウツー本を全部読んでみても、自分が何も分かってない新参者に思えたものだ。30ヶ月後、二番目の子どもが生まれることになったとき、私は本で復習しただろうか? そんなことはしなかった。それどころか、私は自分の個人的な経験を信じていたし、専門家によって書かれた何千ページの本よりもずっと有能だと自信を持つまでになっていた。
以上は、既に優れたデザイナーになるのに必要な資質を持っている人が存在するということを前提にしている。そこでやるべきことは、彼らをしっかり誘導してあげることだ。Alan Perlis はそれをより簡潔に表現している。「誰でも教えてやれば、彫刻をできるようにはなる。ミケランジェロは、放っといても彫刻をしていただろう。優れたプログラマーも同様だ」
さあどうぞ、その Java の本をお買いなさいな。それが何かの役に立つかもしれない。でも、24時間や数日や数ヶ月であれ、それであなたの人生は変わらないし、プログラマーとしての実際の技能全般もまたしかり。
何人もの人が、どのプログラミング言語を最初に学ぶべきか聞いてきた。単一の答えは存在しないが、以下のポイントを考えてみよう。
友人を利用する。「どのオペレーティングシステムを使うべきだろうか。Windows、Unix、それとも Mac?」と聞かれたら、私は普通「何であれ君の友達が使っているものを使えば」と答える。友達から学ぶことで得る強みは、OS やプログラミング言語間に内在するどんな相違も相殺するだろう。また未来の友達も考慮すること。学習を続ける場合、あなたがその一部となるプログラマのコミュニティのことである。選択する言語のコミュニティは大きく成長しているだろうか、それとも小さく死にかけているだろうか? 答えを得る書籍、ウェブサイト、オンラインフォーラムは存在するだろうか? そうしたフォーラムにいる人たちのことは好きだろうか?
シンプルに保つ。C++ や Java といったプログラム言語は、コードの実行時の効率を気にする経験を積んだプログラマの大集団が専門的な開発を行うよう設計されている。その結果、これらの言語には、そうした環境向けの複雑な部分がある。あなたはプログラムを学ぶことに関心があるのであって、そうした複雑さは必要ない。一人の新米プログラマが学び覚えるのがやさしいように設計された言語が欲しいわけだ。
動かす。あなたはどちらの方法でピアノ演奏を学ぶだろうか。鍵盤を叩けばすぐにその音が聞こえる当たり前の対話的なやり方か、それとも曲をまるごと弾き終えた後でないとその音が聞こえない「バッチ」モードだろうか? 明らかに対話モードのほうがピアノを楽に学べるし、プログラミングも同じである。対話モードを持つ言語にこだわり、それを使うこと。
何人もの人が、どの書籍やウェブページから学ぶべきか聞いてきた。私は「書籍による学習だけでは不十分」と繰り返しているが、以下のものなら勧められる。
[訳註4]:新曜社から『日常生活の認知行動 ひとは日常生活でどう計算し,実践するか』(無藤隆・山下清美・中野茂・中村美代子訳)として邦訳が出ている。[本文に戻る]
[訳註7]:原著発行20周年増訂版としてピアソン・エデュケーションから出た『人月の神話 狼人間を撃つ銀の弾はない』(滝沢徹、牧野祐子、富沢昇訳)に第16章「銀の弾などない ―ソフトウェアエンジニアリングの本質と偶有的事項」として収録されている。本文の引用分も、上記訳書の190ページから日本語訳を引用した。[本文に戻る]
[訳註8]:日本語訳は『計算機プログラムの構造と解釈』(ピアソンエデュケーション)。日本語版のサポートページもある。[本文に戻る]

 

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