過ぎとは?/ ノーローン
[ 569] 過ぎ去ろうとしない過去
[引用サイト] http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/
『普通のオタクは良識のある市民であって通り魔などしない』というのが「単なる事実」であると言い切ってしまえるところに問題があると思います。「普通の」オタクがいるということは、「普通じゃない」オタクがいるということです。でも、加藤容疑者のそれまでの書き込みなどを読む限り、よくあるオタクの書き込みであって「普通じゃない」点は特に感じませんでした。境遇にしてもたとえば学歴あって期間工というのは、いまどき珍しくないわけです。ではどこで「普通」と「普通じゃない」点が分かれるかというと、それはやったかやってないかでしか区別できません。でも、やったかどうかに「普通」と「普通じゃない」の分水嶺を置いておいて、やったのは彼が「普通じゃなかった」からだと言うなら、それはトートロジーです。そしてトートロジーであることに意味があるのです。つまり、やってしまったオタクを「普通」のカテゴリから切り離していけば、永遠に「普通」のオタクは犯罪を、少なくとも通り魔などの重大事件を犯さないことになります。この切り離しは犯罪だけでなく、路上パフォーマーの切り離し、ロリペドの切り離しなど、いたるところで見られます*1。 でも、そんなカテゴリは実際には無いんです。『「切断」どころか彼(加藤容疑者)と自分との明確な差異が分からずに苦悩してる人も少なくないのに。』という苦悩は、理解はしますが、苦悩するポイントが間違っていると言わざるをえません。明確な差異が無いなんてことは自明で、やったかやってないかだけが核心です。いくら明確な差異なるものを導出しようと、その次の日にはどこかで通り魔をしているかもしれないし、路上パフォーマーになっているかもしれないし、児童ポルノを購入しているかもしれないのです。そして内心みんなそのことには気づいているはずです。 にもかかわらず、「自分と彼は違う」と問わなければいけないのは何故か。ここで登場するのが、「政治的なもの(the political)」のカテゴリーです。「自分と彼は違う」という問いそのものが政治的な問いです。言い換えれば、やったかやってないかという、事実としてはほんのちっぽけな差異の間に存在する大きな剰余をめぐる争いです。 しかし「聖地の浄化」という現象は*2、この剰余を弔うことで隠匿し、「政治的なもの」の出現を抑圧します。もちろん靖国神社を想起すべきです。映画『靖国』を観てもわかるように、靖国神社には様々な「政治」が集うにも関わらず、その場所は不思議にも脱-政治化されています。聖性が付与されることで政治的なものが抑圧されるのです。映画『靖国』の息苦しさはそこにあります。 でも、ほんとうは靖国神社は、脱-政治化なんてされていません。首相の公式参拝を支持する人などからは、靖国への攻撃は常に「特定アジア」あるいはそれと結託した左翼による「外部からの」攻撃だとみなされています。しかし、実際はそうではなくて、靖国神社自体がそもそも引き裂かれた場所なんです。 「聖性」の付与は、こうしたあらかじめ引き裂かれている場所に統一をもたらしますが、その統一は政治的なものを抑圧した結果であって解決ではありません。たとえば加藤典洋が『敗戦後論』によって示した、まず日本人の死者を弔うことによってアジアの死者を弔う責任主体を立ち上げるのだという考え方がありますが、これは既に多くの批判者によって指摘されているように、欺瞞です。もし「日本人」が引き裂かれているとしても、われわれはその引き裂かれた中において戦争責任を考えなければいけません。まさに「連続と切断、内なる歴史をどうするか。」*3です。 倫理において「責任」を我々自身が内包するのでもなく、かといって「切り離し」によって、「責任」をすべて行為者そのものに押し付けるのでもなく、ということが問われています。ですから、オタクがゆえに加藤容疑者が通り魔をしたかどうかなんて、この場合どうでもいいんです。彼がオタクであったことと、秋葉原で通り魔を起こしたことの因果性は程度の差はあれ指摘できないことはないと思いますが、だからといってそこから「すべてのオタクは通り魔をする」ということは、構造論的因果性なんて持ち出すまでもなく導けないわけですから。 重要なのは、彼がオタクであったということです。彼もオタなりわれもオタなりです。ところが、もしあなたが通り魔を許せない犯罪行為であると思うならば、あなたと彼の間には敵対性があります。つまりオタクは引き裂かれています。同様に、秋葉原も引き裂かれた場所なのです。通り魔は一角に過ぎません。路上パフォーマーにしろ児童ポルノにしろ、敵対性(antagonism)はそこかしこに存在していたのです。にもかかわらず、献花や慰霊*4「秋葉原の日常を復活させよう」という浄化、あるいは「日曜日の秋葉原を歩く。歩行者天国はもう存在しない」というノスタルジー。ぼくはちょっとこの欺瞞に絶えられないので、明確な悪意を持って提案するわけです。「加藤智大通り」をつくれ。つまり、「聖地」秋葉原を敵対性の刃によって象徴的に貫けと。 *1:これは欺瞞というよりはむしろ不幸。オタクは日本においては被差別集団であり、そして被差別集団は差別しているマジョリティよりも常に「品行方正」で「良識的」であれという抑圧を受けている。 *4:むろんこの行為自体の純粋性を疑うべきではない。念の為。しかし、非-関係者によるこうした行為に欺瞞があることは明らかである。 オタクを叩くマスコミ叩きに余念が無いはてなオタククラスタのみなさん、いかがお過ごしですか。まあ卒業文集引っ掻き回してまで「オタクの」「心の闇」を探し出そうとしたり、両親連れてきて人身御供にしたりするマスコミに怒るっていうのは、正当であると思います。 しかしですね。そのやり口はどうなんでしょう。普通のオタクは良識のある市民であって通り魔などしないだとか、両親は悪くない大人なんだから全責任は容疑者に、とか言ってませんか? いや、今いろいろなところでやたらなされようとしている秋葉原の「神聖化」にそうしたものを感じざるにはいられないのです。 僕は、(通り魔事件のせいで)秋葉原に怖くて行けない感性というのがあまり理解できないのですけど、その真逆、つまり「我々は平和な秋葉原を取り戻すためにあえて日常を謳歌しなければならないのだ」式の「神聖化」はもっとどうなんでしょうか。 日常を取り戻すとはどういうことでしょうか。それは、通り魔事件をなかったことにすることです。秋葉原という街の記憶から、通り魔を消去することです。 しかし、本当にそれでいいんでしょうか。ぼくがこの事件そのものをことさらに取り上げるべきではないと言ったのは、それこそ事件「だけ」に着目していえば、必然的にそれは卒業文集的なワイドショー的消費になってしまうからであって、さっさと忘れるべきだという意味ではありませんでした。 たとえば実際に被害にあわれた方々にとっては、この事件ははやく忘れ去られるべきものかもしれません。特にこうした通り魔などの犯罪にあわれた方はPTSDなどを起こすことがありますから。 しかし、別にその現場にいあわせただけの、いやいあわせてすらいなかったオタクが被害者面をするのは、それこそ「不謹慎」な気がします。あるいはこれもある種の「不快感至上主義」と言ってもいいかもしれませんが。 そもそもなぜオタクは「われわれは傷つけられた」と思ってしまったのでしょうか。多くの「善良な」秋葉原のオタクたちにとって、通り魔は外部からやってきたものでした。彼はまさにオタク的な趣味を持ち、オタク的な言語を用い、オタク的な問題について関心があったにも関わらず、オタクにとっての「われわれ」の中には、彼は入れてもらえませんでした。 しかし、現実の秋葉原は開かれていて、外部はありません。秋葉原で起こったことに対して、これは秋葉原で起こってよい事件であれは起こってはいけない事件だった、という区別を設けることはできません。もし世の中が常に理不尽な力の暴発の危険にさらされているとすれば、秋葉原もその例外ではないのです、よって、通り魔事件は秋葉原の歴史において当然、刻まれる権利をもつのです。 確かに凄惨な事件でした。出来れば思い出したくない記憶であるかもしれません。しかし、秋葉原が「日常」を取り戻すために事件をなかったことにするなら―また再び何の屈託もなく「聖地」秋葉原という言葉が用いられるなら、記憶には抵抗する権利があります。 かつて、ベルゲン・ベルゼンの市民が、市のとある道をアンネ・フランク通りと改称しようとしたことに対して抵抗したというエピソードがあります。 そんなわけで、ぼくは秋葉原の中央通りを「加藤智大通り」と改称することを提案します。もちろん、歩行者天国の廃止などもってのほかです。通り魔行為を賛美するのでもありません。大事なのはそれが記憶され語り継がれるということです。それこそが事件を「消費」しない方法であるのです。卒業文集をいじくりまわすのも「消費」ですが、「通り魔犠牲者の屍を乗越え、ぼくたちはより楽しい秋葉原を」的なナショナリズム高揚も酷い「消費」の仕方だと思いますので。ええ。 逆じゃないかなあ、と思う。「現場の動画や写真を撮」った人たちは、「非日常」から自己を守ろうとしたんじゃなくて、むしろ積極的に「非日常」の中に自己を投企させていったのでは。つまり、彼は(言葉の定義にもよるのだが)ただそこにいるだけでは「観客」である(ようにみえる)。しかし、動画や写真を撮ることによって、彼はまさにネットの前で待ち構えている我々(あえて我々という)「観客」に対する「当事者」になろうとしたのではないか。 youtubeやニコ動において、みんなが賞賛してきたインタラクティブ性というのはつまりこういうことなんだと思う。偶然センセーショナルな事件の現場に遭遇しました、という事態は、自分が(受容者ではなく)「一次コンテンツ」の発信者になるチャンスに他ならない。これはやはりプロのジャーナリズムとは異なっていて、まあもちろんジャーナリズムにそのような性質が無いとは言わないけど、少なくともコンテンツの発信者と受信者が相互的なものであることによって生じた関係性・コミュニケーションそのものが情報発信の動機となり得る、ということはやはり特徴的であって区別されてよいと思う。もちろんこのような動機付け自体は昔からあって、井戸端会議的な場所で発散されてきたのかもしれないけれど、技術の進歩によってそれが広範囲の人に伝えられるようになりましたということ。 たしかに最初は面白そうだし、映像のネタになるだろうから。。。というのが配信をした動機だし、配信初めて視聴者が1000人超えた当りでかなり興奮しててただ撮ることに必死でした。 これが全てだし、まさにこうした心性を誘発させるようにネットに未来を求めていたみなさんはがんばってきたわけでしょう? あたりまえだけど、ニコ動にせよyoutubeにせよ、もっといえばブログにせよ、そうした欲望って多かれすくなかれみんなあるわけじゃん。書くこと自体がアイデンティティになるっていう。だから「不謹慎」という人には、ブログのコメント欄にわざわざ出張って書いてるお前も同じことしてんだよと言いたい。まあとはいえ、個人的にはこうした「祭り」的な価値観から事件を発信することを、こうやってどっちもどっちな開き直りみたいな態度で正当化するのも魂に悪いので嫌。どうしようかしら。そもそも、この事件ってあまたの犯罪報道と同じでワイドショー的にやんやん騒いでも何か意味あることは出てこないだろうし、怖くて秋葉原行けないって人もいるけど秋葉原でこのような通り魔事件なんて確率的にはこの先50年は起きないんじゃねRK*1と思わないでもないから*2、特別な事件として深刻にいろいろ考えること自体が何かの罠な気もする*3。少なくともブログ論壇(かっこわらい)がこぞって取り上げなくてもいいんじゃないかなあ。 近代的な「生-権力」は人間がまさに可死的なものであることを出発点とする。そのため、権力は「生きるままにさせておく」または「死なせる」ものから、「生きさせる」または「死の中へ廃棄する」ものへと変容するのである。フーコーにおいて前者と後者の権力は区別されたものであったが、アガンベンはこの両者が一致する現代的な全体主義国家の分析においては、この区別が問題化されると指摘する。 フーコーが1976年のコレージュ・ド・フランスでの講義でこの問いに与えている答えはよく知られている。すなわち、人種差別とは、生-権力が人類という生物的な連続体のうちに区切りを刻みこむことを可能にし、そうすることによって「生かす」システムのうちに戦争の原理をもちこむものにほかならないというのである。(p111)*1 この生の連続体において、生の政治と死の政治は無媒介に一致するというのである。生政治は、この区切りにおいてしだいに領域を分離していき、その限界がナチスの生政治においては<回教徒>であった。 囚人が回教徒となる瞬間に、人種差別的な生政治は、いわば人権を越えていって、もはや区切りを定めることのできない閾に入りこむ。ここにいたって、国民と住民のあいだの揺れ動くきずなは、ついに粉々になり、定めることができず区切ることができない絶対的な生政治的実態のようなものが浮かび上がるのをわたしたちは目にする。(p112) ところで、「生-権力」の誕生には医療あるいは医療ポリツァイの発展が大きく関わっていることは今更指摘するまでもないが、たとえばナチスの生政治は医療あるいは医療ポリツァイの産物であると言うと、多くの反発が寄せられるだろう。ナチスの思想はそれらを曲解してつくられた産物にすぎないと。 近代西洋医療は、日本で脳死問題が話題となるはるか200年前に、「早すぎる埋葬」という現象に対処することで、すでに死は出来事ではなくプロセスであると認識していた。ただ、200年前と今日で異なるのは、 医療におけるトリアージが、いくら技巧をこらせようと*3、生と死の境界をプロセス化するという事実はくつがえせない。その連続体の中で、生の政治と死の政治が一致しているのである。つまり「生きさせる」権力と主体的な行為としての「死の中へ廃棄する」権力であり、どちらが主でどちらが従であると言うことは出来ない。 いったい、トリアージされる人々とは何だろうか。彼らはまだ「生きている」が、死のプロセスの中に置かれている。それはアガンベンがいうところの「定めることができず区切ることができない絶対的な生政治的実態」に他ならない。彼らはただ「生きているのみ」に切り詰められた人間である。アガンベンはそれをホモ・サケル<聖なる人間>と呼ぶ。「生きているのみ」というのはつまり「死んではいない」ということで、レヴィナスの言葉で言えばそれは「非-人間」であり、過剰な剰余によって特徴付けられている。ゆえに<回教徒>はホモ・サケルとして姿をあらわすのだ。 もちろん、物資輸送は自衛隊である必然性は無い。自衛隊派遣に単なる人道問題以上の政治的な含みがあると考えるのはごく当然であろう。にも関わらず、そしてそもそも援助自体に反対してないにも関わらず、少しでも自衛隊の派遣という事態を問題化した瞬間、とにかく人道問題なんだ教条主義だと声高に批判される理由は? それならば、政治的共同体から除外され、<命あるのみ>のホモ・サケルの権利に引き下げられた<人権>はどうなるのか。非-人間として扱われる、まさに権利のない者の権利となり、役立たなくなったときは>ジャック・ランシエール〔フランスの哲学者・政治学者。1940-〕が重要な弁証法的逆転を提案している。「……用がなくなれば、(…)海外へ送られる。(…)このような過程の結果として<人権>は権利を持たず、残酷な抑圧や生存条件に耐えることを強いられた、剥き出しの人間の権利になる。人道的権利として、それを行使することのできない、権利を絶対的に否定された被害者の権利となるのだ。それでも、無効ではない。政治的な名や政治的な場所が全く空虚となることはなく、誰かまたは何かによって埋められる……もし残酷な抑圧に苦しむ者たちが最終手段である<人権>を行使できないなら、別の者がそれを継承し、彼らの代わりに行使する必要がある。これこそが、犠牲となっている住民を助ける想定で『人道的干渉の権利』と呼ばれ、多くの場合は人道的組織の勧告に反して特定の国々が我が物にしている権利だ。『人道的干渉の権利』とは、一種の『差出人への返送』だといえるかもしれない。不要品として権利を持たざる者へ送られた権利が、差出人へ送り返されるのだから」(p165-166) さらに、ランシエールが指摘する通り、イグナティエフが説くようなリベラル派の人道主義は、政治的関心を除くという点で、予想外なことにフーコーやアガンベンがとる<過激な>姿勢と合致する。<生政治>こそ西洋思想が行き着く先だというフーコー/アガンベン的観念は、一種の<目的論的な罠>にはまってしまう。強制収容所が「目的論的運命に思えてしまうのだ。我々一人ひとりがキャンプにいる難民の立場になる。民主主義と全体主義との差異は薄まり、政治的な行いは全て生政治的な罠にかかっていることが明白となる」。(p167)*4 災害救助への自衛隊派遣と、他国への人道的軍事介入が地続きであるのは、今までの議論を踏まえれば明らかである。今回の場合、中国政府の要請ということだから、それも地震直後から検討されてきたということだから、これは日本政府と中国政府の政治的共謀が働いていると誰でも思いつくだろう。しかしわれわれは「生政治的な罠」にかかることで、そこにある大きな問題性を見落としてしまう。9.11以降の、「緊急事態」を言い訳にした政治的行為である「対テロ戦争」に左派が一貫して反対の立場を取ってきたとするなら、当然今回の「生政治」の発露にも疑念を呈するべきなのである。その意味において、社民党のスタンスは正しい。 それでは、われわれはいかなる態度を取るべきか。上の引用においてジジェクが、フーコーやアガンベンの態度を「一種の<目的論的な罠>」であると指摘していることは重要である。彼が支持するのはバリバールなどの説である。 バリバール等の論述で展開される考察。近代化が新たな自由の分野を切り開くと同時に新たな危険も出現し、最終的な結果の目的論的保証などないまま、何でも起こりうる戦いの決着はついていない。(p160) けれども、「全体」は敵対性によって構成されています。「全体」に同一化することは、その中で特定の位置を政治的に選択することに他なりません。「全体や組織から見た最適」は特定の政治的位置においてのみありうるのであって、切り捨てられる側がそれに屈服すべきいわれはありません。 もし生政治が「政治的なもの」のを排除することで権力を行使しようとするなら、われわれは全体は敵対性によって構成されていると言うことで「政治的なもの」の存在を明示させる必要がある。これは「ビッグブラザー」の創出ではない。そうではなくて社会における非政治的空間だとみなされていたものの間にある権力関係・政治的関係を丁寧に見ながら議論を進めていくということなのであり、むしろそれだけが「生政治的な罠」に陥らない唯一の道なのではないだろうか。 延期されたらしい。というか民間機のほうがたくさん運べるというなら、やはり自衛隊派遣は別の政治的な目的があったのだろう。 もちろんトリアージを拡大解釈するなってことは大事なんでしょうけど、どうして人はトリアージみたいなものを拡大解釈したがって、しかもそういうエントリには賛同ブコメがいっぱいつくんだろうってのも大事では。いや、「誰かを切り捨てなければ誰かを助けることはできない」っていうのが、彼の中で事実(Wirklichkeit)を通り越して真理(Wahrheit)にまで達しちゃってる人っていますよねっていう話なのですが。 なぜこんなに「月宮あゆが助かる〜」という考えを僕が憎むかというと、「誰かが助かることで、他の人は助からない」という考えというのが、ある種の奇妙な「社会性」みたいなものを他人に押し付けるために使われることが多いからなのかも。 倫理的な問題を考えるときに、「思考実験を構成して、選択肢のどれを選ぶかについて議論する」というやりかた。その際に(思考実験を成立させるために)さりげなく導入される「他に選択肢はない」という前提。この前提がどれだけ議論に隠れた影響を与えているのか、ということを考えたりするのです。 そして先生の側からしても、それは実は望むところでもあるのです。先生にとっては、女子学生を悪く思うことが、彼の一つのモチベーションというか、価値観の拠りどころになっている。 そういう人がヲタになると、たとえば『イリヤの空』みたいなのを絶賛したりする。「この残酷さにこそリアリティがあるのだ」って言って。キモいなあ。 それで、こういう人の価値観って確かにかの女子学生みたいな人をdisることによって保たれているんですよね。 自分のことに比べて、あいつのバカさ加減はなんと自明に思えることでしょう! さらに言うならば、ある種の信念は、他人と自分との認識のギャップであったり、無知な他人が居るという信念だったりに支えられているのではないでしょうか。 とにかくまあ、たとえば「俺だってかわいそうだとおもってるけど、でも切り捨てなきゃいけないんだよ」と言い訳したりすることもあります。どうなんでしょう。結局は、自分の中に「バカな女子大生」の像をつくって、「ダメだなあ、俺うっかり思考停止するところだったよ」って言ってそのかわいそさをdisることで、何かを切り捨てるのをばびゅーんと加速させるわけですよね。「確かにかわいそうだと思ってるよ。でも俺あそこでバザーなんかやってる連中とは違うよ」それは既に「かわいそう」だと思ってない気がします。 で、「世の中の残酷さを理解している俺ら」と「バカな女子大生」の境界は、彼らにとってはイニシエーションとしての教育だったりします。今回の事例に限らず、教育者ってトリアージみたいな「冷たい方程式」 あらすじは、あらゆる人々が幸福な街オメラスだが、それはたった一人の子供の犠牲によって成り立っている。オメラスの子供たちはある時期が来るとその事実を伝えられる。大抵の子供はそれを受け入れるが、ときどきオメラスから一人で歩み去る人々がいる、というもの。 ところが、犠牲によって共同体が支えられている仕組みに関して、作品中では明示されない。むしろ、「仕組みの詳細なんてどうだっていいじゃない。形は様々だけど、とにかく世の中にはそういうことがあるってことを、貴方も知ってるでしょ?」とでも言いたげな感じで語られてしまう。 て、逆説的ではあるけれど、まさに、この通過儀礼こそがオメラスの繁栄を支えているのではないかという見方を、語り手は述べている。 どういうことか。つまり、子供の犠牲の上に自分たちの繁栄が成立していることを知ることによって、オメラス住民は自らのありかたに対してある種の謙虚さとでも呼ぶべきものを身に付けるのではなかろうか。 そして、オメラスシティーの(慎ましいと言っていい)ユートピアは、まさしく、オメラス住民のその謙虚さによって成立しているのではないのだろうか? そして、オメラス住民が一人黙って行動するということは、結局のところ、聞き手によって自分が理解され尽くしてしまうことを拒絶する態度、 |
ノーローンのサイトです。