キャッシュワンのサイトです。
貸付 ビデオ ネット ピクニック レジャー コンテンツ 用品 による チェッカー 信託 グリーン 立ち ディック 日本 ちょっと 予備 計画 民事 販売元 即日 入り 無理 こちら 残り 黒字 視点 秒速 やすく チェック enterprise

果てとは?/ キャッシュワン

[ 598] 求道の果て(ぐどうのはて)
[引用サイト]  http://www2m.biglobe.ne.jp/~takaq/

昨今の女の子満載のアニメが嫌いなのですが、村とか島などの狭い環境下において、同じような顔の美少女が数多く存在するのは、きっと閉鎖的な環境により遺伝的に行き詰まっている、前時代的な言い方で表現するなら血が濃いため、似たような表現型が発現しやすいのでしょう。
外部からやって来た男性が、そのような環境に組み込まれることで否応なくモテるのは、大昔、外部との交流が少なかった村で旅人などの稀人を歓待して女性をあてがうことで、外部からの血を入れて濃い血を薄めてきたのと同じ理由(遺伝的な多様性を獲得)なのでしょう。納得です。
また、作品世界に特殊な病気が存在する場合も、同じく遺伝子的に行き詰まっているという設定に起因するのに違いない。ただ単に美少女が沢山出てくると思っていたけど、実は閉鎖環境での土着的恐怖を描いたホラーだったんですね。現代が舞台であるのが御都合主義なだけで。
写真は今日お詣りした水主坐天照御魂神社。やたらと長い名前ですが、単純に水主(みずし)に鎮座する(います)天照御魂(アマテルミタマ)を祀る神社という意味です。写真のように田んぼの中にぽつねんと島のような鎮守の森が形成され、神さびたという言葉がしっくりする空気を感じる事が出来ます。
水主神社は、『延喜式神名帳』という927年に作成された国家が管理する神社のリストに掲載されている、千年以上の歴史を持つ古社ですが、掲載された全2861社のほとんどが1柱の神様(平均1.09柱)をお祀りするのに対して、この神社は唯一10柱もの神様を祀っているという際だった特徴があります。
その10柱の神様で第一に挙げられているのが、天照御魂(アマテルミタマ)ですが、どのような神様なのでしょうか。当方のような素人には、音の類似から天照大神(アマテラス)を想像してしまうのですが、天火明命(アメノホアカリ)という神様で、天孫降臨で知られる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の兄神です。
天火明命とは古代の有力氏族である尾張氏の祖神であり、一説にはこちらも有力氏族である物部氏の祖神である饒速日命(ニギハヤヒノミコト)と同神とも言われます。これは偽書とされる『先代旧事本紀』の説なのですが、『日本書紀』でもう一人の天孫とされた饒速日命と同神とは興味深くはあります。
さて、天照御魂とされる天火明命や饒速日命は、共に『日本書紀』において天照大神の孫神とされますが、この天照御魂こそ天照大神の元となった太陽神だという説があります。これは天照大神の別名であるオオヒルメが太陽を祀る巫女のことであり、祀られる対象が天照御魂だったのではという説です。
その真偽はさておき、個人的には興味深い説だと思ってます。世界的には、太陽神は男神、月神は女神であるというパターンが多く、男神である天照御魂(天火明命)を祀る巫女が天照大神(オオヒルメ)だったという考えはしっくりきます。更に飛躍して、天照大神は女神ではなく男神という説もありますが。
ここで結論は出せませんが、天照御魂が有力な神様だったのは確からしく、『延喜式神名帳』には複数の天照御魂神社が記載されています。例えば、京都には蚕ノ社こと木島坐天照御魂神社、奈良には三種の神器、八咫鏡を作った石凝姥命(イシコリドメ)を合祀する鏡作坐天照御魂神社などがあります。
オンラインでもオフラインでも、完全に秘密にしていましたが、去年の11月下旬に明治神宮に参拝して初めての御朱印を戴いて以来、この一年間と一ヶ月を全国の神社への参拝に費やしてきました。その結果、310社の神社から御朱印を戴きました。また、写真が趣味ですので、1万枚以上撮影しました。
また、この期間の読書の大部分は神道関係でした。元々『古事記』が特に好きでしたので、現代語訳で7種類、原文(書き下し文)で3種類読みました。『日本書紀』や『出雲国風土記』も一応読んでいますが、愛読する『古事記』レベルの読み込みは出来ておらず、もっと読み込んでいきたいと考えています。
なお、当方の最大の興味は国家神道と近代天皇制であるため、参拝の対象として、近代社格制において国家から奉幣を受けた官国幣社の内、天皇と縁が強い官幣大社から官幣小社の全て、国幣社では最高位である国幣大社の全てへの参拝を目標にしました。その結果は下記の記録で確認して下さい。
あと、今回の参拝では縁があったのか色々とタイミングが良い場合が多かったです。例えば、出雲への旅では島根県立古代出雲歴史博物館が開館したばかりで、開館記念特別展「神々の至宝−祈りのこころと美のかたち−」を観られましたし、奈良国立博物館の特別展「神仏習合」も素晴しい内容でした。
また、当方はとにかく旅行が好きな人間ですので、様々な場所に行けるだけで幸せになれます。今回の参拝の旅のお陰で未訪問だった県の数も少し減らす事が出来て、これまで経験した事が無い県は高知県と長崎県だけになりました。図示すればこんな感じで、東北三県と佐賀も訪問したいところですが。
今後の予定としては、ペースは落としますが、特に興味がある一宮(飛騨、越中、但馬、周防、讃岐、土佐、肥前)への参拝、古社にも興味があるので関西圏で延喜式神名帳に記載されたいわゆる式内社への参拝、気に入った神社への再参拝を考えています。もう十分無理をしているので可能な範囲で。
上段で気に入った神社への再訪と書きましたが、この一年一ヶ月で最も多く参拝したのは、靖國神社(東京)への5回。それに次ぐのは、明治神宮(東京)、日吉大社(滋賀)、石清水八幡宮(京都)への3回。2回は多数になるので省略。いずれも特に気に入っている神社ですので、今後も参拝すると思います。
一年間一ヶ月では十分な成果だったと考えていますが、如何でしょうか。唯一参拝出来なかった官幣大社である月山神社(山形県)は来年の宿題というか、最初から今年は無理だと思っていました。遠いだけでなく、高山の山頂にあるので、まともな登山になるからです。諦めずに今後も機会を狙いますが。
昭和6年、大阪にあるアパートが建てられました。最初期の鉄筋コンクリートのアパートとして、そのモダンさは憧れの的だったそうです。このアパートの建築目的はスラム化の防止でしたが、戦後の混乱期、皮肉にもスラム化してしまいました。
その後、無秩序に建て増しなどの改造が加えられて、特異な高密度の生活空間が形成され、いつの間にか「軍艦アパート」と呼ばれるようになりました。軍艦アパートは元々、三棟が存在しましたが、最後の一棟が昨年閉鎖されて消えました。
以下の写真は閉鎖直前に、小説家で脚本家の飲み友達、涼元悠一氏と、軍艦アパートの最期を看取るために訪問した時に撮影しました。素人写真で恐縮ですが、失われてしまったモノが伝われば幸いです。二度と有り得ない空間にサヨナラ。
初めて上京した時、築地本願寺を訪問しました。『帝都物語』(荒俣宏)にも登場するこのお寺は、伯爵であり首相候補にもなった西本願寺門主、大谷光瑞の依頼により、東京帝大名誉教授である伊東忠太の設計により建てられました。
大谷光瑞と伊東忠太という二人の傑物により、東京に築地本願寺というインドが現出したのは昭和9年。世界へのアクセスが容易になった現代人が見ても圧倒されるこの怪建築を竣工当時、72年前に見た人々の驚きは想像できません。
伊東忠太への興味の原点は築地本願寺でしたが、それを決定的にしたのは妖怪趣味でした。文字通り「人を食った」忠太は変わった所があるのか、帝大教授であった大正14年に「化けもの」という文章を『週刊朝日』で発表しています。
2月某日。忠太の建築を再訪しようと思い立ち、飲み友達であり妖怪漫画『もっけ』の作者である熊倉隆敏さんを誘ってみました。妖怪好きな熊倉さんなら当然かも知れませんが、以前から忠太に興味があったらしく、良いタイミングでした。
最初に訪れたのは御茶ノ水の湯島聖堂。築地本願寺がインドなら、湯島聖堂は東京の中の中国です。実は湯島聖堂は忠太建築では最も好きな作品なんですが、その理由は近代建築により、神を宿すことに成功した稀有な例だから。
湯島聖堂は四方を取り囲んだ空間から成りますが、一歩その空間に入ると外とは完全に隔絶してくれます。その空間の不思議な雰囲気は言葉では巧く表現できません。ふと見上げれば、四方から霊獣である鬼龍子が見下ろしています。
次に訪れたのは両国の東京都慰霊堂。関東大震災で3万人が亡くなった業の地に建つこの慰霊堂は、神社と寺院と五重塔と城を組み合わせたような怪建築。東京大空襲の被害者を含め十数万人の遺骨が納められており、重いです。
この重い建物であっても、忠太の妖怪趣味は健在だったようで、建物の外部のあちこちに謎の化け物が配置されていました。建物内部に入ると普通にお参りできる空間で、流石に遊んでいないなと思い見上げれば、3体のガーゴイルが。
最後に訪れたのは築地本願寺。境内に入った途端、目の前にインドが現出。熊倉さんは笑ってしまったそうですが、これはもう笑うしかない建物です。存在自体が奇跡。興奮しながら、内部でお参りしようと思ったら、少し前に閉門で敗北。
3月某日。意外に早く再チャレンジの機会が巡って来ました。熊倉さんと合流して、今度は最初から築地本願寺を訪問しました。当然、以前とは違い開いていましたので内部へ。そこでいきなり見つけた牛、怪鳥、獅子、馬、猿、象。凄い。
流石は忠太で最も有名な築地本願寺。ただただ圧倒的。本堂も立派ですが、巨大なパイプオルガンが設置されて何か違う。本堂は何もないだろうなと思い、柱を見たら玄武。よく見れば、朱雀、青龍、白虎も。絶対に趣味に走っている。
いきなり満腹になりましたが、続いて靖国神社に移動。境内にある遊就館は多数の兵器が展示され、軍国主義的だとも言われますが、ミリタリ好きなら大喜び。実は初めて上京した時に遊就館も訪問しました。実はミリタリ好きでしたので。
頭の中が兵器で一杯になっていると気付かないかも知れませんが、実は遊就館も忠太の建築です。忠太の建築という目で見れば、何だかよく分からない鬼瓦のような物体が正面にあり、これもよく分からないシャチホコにも気付くはず。
余裕があったので、最後は国立市の一橋大学へ。一橋大の象徴ともいえる兼松講堂だけでなく、本館、図書館、東本館も忠太の建築です。しかも、これらは忠太の建築の中でも妖怪趣味が極めて濃く、その意味では築地本願寺以上。
特に忠太の建築で最も化け物が多いと言われる兼松講堂には仰天するしかありませんでした。建物単体でもロマネスク建築で日本を代表する傑作なのに、偏執狂なまでにそこらじゅうに化け物を配置しています。それはもう呆れるぐらい。
この2日間は当方だけでなく、妖怪好きの熊倉さんにとっても、珍しいぐらい過剰な化け物尽くしの日だったのではと思います。化け物で吐きそうなぐらい満腹になりました。本当に吐いたら、そこに新しい忠太の化け物が生まれそうですが。
上海航空FM972便で関西空港を15:30発。約二時間のフライトで上海へ。上海に近付くにつれ、郊外の田園風景が見えてくるのですが、全ての家屋が同じ様式というか同じ規格ばかりで玩具の家みたいでした。これも計画経済の結果なのか。
定刻通り17:05に上海の浦東空港に到着。タラップを降りる時にむわっとする高湿度の強烈な熱気に包まれて、南方に来たんだなと身体で感じられました。空港からホテルまでは奮発してタクシー。途中で数多くの日本企業の看板を見かけました。
企業の進出もそうなのだけど、高層建築が異様に林立していて、その経済発展の凄まじさが視覚的にはっきり理解出来ました。ただ、余りに勢いがあり、バベルの街のように罰を受ける日が来ないかと想像したり。貧富の差とかも酷いんだろうな。
ホテルはソフィテルハイランド上海。何と四つ星です。これまで清く貧しい旅をしてきたので違和感を覚えるけど、ツインで一人5,000円程度とリーズナブル。ロビーで数々の旅を共にしてきたW氏と合流。W氏は赴任地のバンコクからの到着でした。
さらに上海在住のN氏と合流。N氏はW氏と同じく京大での旅行サークル仲間。タクシーでN氏のお薦めの料理屋へ。お洒落なビルなのにスカスカな印象。雨後の筍のようにビルが建つ上海では入れ物だけ作って、中身は後から考えるかららしい。
N夫人も合流して、お薦めの担々麺など。上海到着後初の中華でしたが、どれも美味くて満足。帰りにライトアップされた租界時代の石造建築物が見られて心も満足。電力事情が芳しくない上海ではライトアップされない日もあるらしくラッキーでした。
N夫婦と別れ、コンビニで買ったビールで飲み直し。今回の旅行ではコンビニのお世話に結構なりましたが、この文化は本当に便利。コンビニに行く途中、暗い夜道で女性に付きまとわれました。立ちんぼの売春だけど、この文化もどこでもありますね。
二日目。上海では一二を争う観光地、旧上海城地域にある豫園を目指して歩く。ホテルのある辺りは近代的な建物ばかりでしたが、豫園に近づくと昔ながらの住居が密集して、上海人の生活の空気を感じられました。カメラを向けると怒られますが。
豫園は広大な庭園で数々の楼閣が配置され、その特徴ある瓦に魅せられました。中国では奇岩を愛でる文化がありますが、豫園では岩を組み合わせて人工のトンネルが造られていて、西洋庭園のグロッタ趣味に通じるものがあり興味深かったです。
バスに乗り、昨日も見かけた租界時代の石造建築物が並ぶ外灘地区へ。上海で最も有名な観光地ですが、居並ぶ建築物は立派の一言。そこから川を挟んで、これまた有名な葱坊主のような形をした、高さでアジア一のテレビ塔が見えました。
その川を渡る観光地下トンネルがあり、N氏から「二度と通りたくなくなる」と聞いていたので嬉しがって挑戦。自動カートに乗ると子供騙しの電飾とBGMが。余りの馬鹿らしさに腰砕け。確かに話の種にはなるけど、料金を返せと言いたくなる。
川を渡ったのでテレビ塔にも登ってみようと思ったのが、今日の失敗でした。途中、260mの展望台から見渡す上海は大都会の偉容を一望出来て良かったのですが、最上階350mの展望台に登って降りるのに一時間以上も待たされてひたすら消耗。
まだ時間があったので、地下鉄を乗り継いで、あの孫権が建立したという上海最古の禅寺、龍華寺へ。七層八角の仏塔は立派でしたが、既に疲れ果てていたので、ろくに鑑賞せずに近くのメシ屋で遅い昼食と青島ビール。胃に酒が滲みて癒される。
かなり弱ってきたので、龍華寺から高架鉄道と地下鉄でホテルに一旦引き上げて休憩。ところで、中国では列車を火車、バスを汽車と呼びますが、新しく造られた高架鉄道は新汽車と呼ばれていました。列車とバスの中間的な扱いなんでしょうか。
ホテルで休憩後、本日最大の楽しみである上海雑技団へ。最初に感想を述べると、本当に良かった。過剰なのに洗練されているというか、一つの芸だけで凄いのにさらに別要素を加えたり、手品やコミカルな要素など趣向を凝らして飽きさせない。
その後、N夫婦と合流してお薦めの湖南料理屋、滴水洞湘菜館へ。湖南料理は野性味と激辛で有名ですが、辛い物好きの当方には極楽でした。特に美味しかったのが、シシカバブ風のスペアリブ。香料の使い方が絶妙、料理名は忘れたけど。
N夫婦と別れて、昨日と同じくホテルで飲み直し。ヒマワリの種をつまみに紹興酒を飲み続ける。何だかひたすら飲んでばっかりの気もするけど、今回の旅行の最大の目的は美味い料理と酒を堪能することなので、これはこれで良い感じだと思う。
三日目。チェックアウトしてタクシーで上海駅へ。これから蘇州を目指しますが、切符は軟座。読んで字の通り、日本の電車のような柔らかい座席で、そこから硬座、無座とダウンしていきます。軟座だけ待合室までリッチなのには驚きましたが。
ホテルから裏手にある盤門へ。盤門とは蘇州で唯一残っている城門で、日干しレンガの城壁と門で構成されていますが、水城都市である蘇州らしく水門もあり、立体的で興味深い景色でした。その後、タクシーに乗って、盤門から少し離れた滄浪亭へ。
滄浪亭は世界遺産に登録された蘇州四大名園の一つで、最も古い庭園。規模はかなり小さいですが、竹林の使い方が趣深く、豫園と同じく岩石のトンネルがありました。ただ、この庭園が世界遺産といわれても、ちょっと弱いかなという印象でした。
蘇州の中心である観前街で辛い麺で昼食後、蘇州四大名園で最大の拙政園へ。蓮で満たされた池やそれをとりまく楼閣も立派ですが、大味で規模だけという印象。ここも世界遺産であることに疑問を感じてしまいました。趣味の問題かも知れないが。
拙政園から郊外にある虎丘へ。虎丘には高さが50m近い日干しレンガの七層八角の斜塔があります。地盤沈下で傾き始めたらしいが、明らかに傾いていることが分かります。傾いているのも面白いけど、実に遺跡らしい佇まいで見応えがありました。
虎丘を後に1,500年近い歴史を持つ禅寺、寒山寺へ。参拝客は太い線香の束を手のひらに挟みながら祈っていましたが、日本に伝わっていない作法でしょうか。その後、昨日からの疲れが溜まっていたので、当方はホテルで仮眠、W氏は買い物へ。
戻ったW氏と適当なバスに乗って、目についた料理屋で夕食。地元の人しか行かないような店で、腹一杯食って、青島ビールを飲んで一人15元、200円程度。安い、それに何より美味かった。上海に来てから外れ無しです。宿に戻ってまたビールで〆。
N氏と合流後、地下鉄とタクシーで世界的に有名な小籠包の名店、鼎泰豊へ。あまり美味しい美味しいと書くとボキャブラリーが貧困で嘘くさく聞こえますが、これも流石の美味さ。こんな美味しい物ばかり食べて、良いんだろうかと自問自答状態に。
腹も満たされたので、腹ごなしに日本にもあるスーパー、カルフールへ。食品売り場にお国柄が出て面白いですね。中華は油でしょうが、5リットル入りを何本も買う人が結構居て驚く。あと、サッカー日本代表チップスが売っていたが、売れるのか。
ホテルまでタクシーで戻り、中国式の茶店で中国茶をひたすら飲みながら、サークル同期の近況や思い出話などをして、二時間以上も粘る。流石に旅の疲れもピークに達してきて腰も重かったけど、晩飯までに腹を空かすために夜の外灘地区へ。
夜の外灘は魔都の往時を偲ばせる建築がライトアップされ、対岸のテレビ塔や高層ビルも光り、一番人気のある景色であることを納得させる、一番感動的な景色でした。ただ、観光客がここぞと押し寄せるので、遊歩道は凄まじい人出になりますが。
腹も減ってきたので、旧フランス租界地区へ。この地区は古い建物が残っているだけでなく、街路樹も多く、フランス租界当時に思いを馳せることが出来ました。そこの怪しげな裏路地に入ったところが、本日の夕食を摂る上海家庭料理のお店。
N夫妻が馴染みというこのお店はこぢんまりとして家庭的な雰囲気。当方の横で主人が中国将棋に興じていたり、良い感じ。N夫人も合流して三回目となる会食。中華料理といえば濃いイメージですが、意外とあっさりした味付けで新鮮。酒も進む。
N夫人とは別れ、N氏とW氏でホテルの部屋で飲み直し。昼間に茶店で散々話したのに話題は尽きず、紹興酒も二本空きました。そして当方は今回の旅行で初めて潰れました。中国人は意識がなくなるまでは飲まないそうで、見習いたいものです。
五日目。昨晩は飲み過ぎましたが、朝には爽快。今日の予定は帰国するだけ。地下鉄に乗ってリニア駅まで。空港までリニアモーターカーが通じており、日本ではリニアは商業化していないので、上海に行ったら絶対に乗ろうと考えていました。
体感ではスピードが分かりませんが、親切にもメーターが設置されており、時速430キロまで出ているのが分かりました。走行距離と時間を考えれば、異様に速いのは理解出来るけど、流れる景色を見る限り、そんなに速いとは思えなかった。
早朝に京都発、岡山から瀬戸大橋方面へ、9時前には児島駅到着。更に10分程歩けば、14年前に廃線になった下津井電鉄の児島駅。駅舎自体は下電旅行センターとして再利用されていますが、日曜日は休みで、廃線時のまま残っているという構内や時刻表などを確認することは出来ませんでした。
児島駅をぐるっと回って駅舎の背後へ。そこから終点の下津井駅まで続いていく廃線跡が、今回の旅の目的地である風の道。遊歩百選にも選ばれたこの道は、野ざらしだった廃線跡が遊歩道として整備されただけでなく、ホームや架線柱がそのまま残っていて、いつか歩きたいと思っていた道でした。
児島駅から赤崎駅、阿津駅と住宅地を貫き、かつての都電のように、家々と近接した文字通り身近な鉄道だったんだなと。犬の散歩やジョギングに利用する方が散見されましたが、今でも身近な空間なんでしょうね。地元の方が植えられた花や架線柱が次々に連なっていき、目を楽しませてくれました。
阿津駅を過ぎると登り坂となり、JR瀬戸大橋線の下を潜り緑の中へ。山腹にへばり付くように道は続き、琴海駅に到着。高所にあるため、見渡した瀬戸内海は絶景でしたが、下の集落から駅まで登ってくるのは大変だったのではと思いましたが、ローカル線らしく案外のんびりしたものだったのかもとも。
再び緑の中や切通しを進んで、鷲羽山駅へ。『悪霊島』(横溝正史)の発端として有名な鷲羽山への入口。鷲羽山は児島半島の先端で瀬戸内海を一望できる景勝地です。時間の都合で今回はスルーしましたが、鷲羽山駅からでも実に眺望が見事で、瀬戸大橋や下津井東部の集落を一望出来ました。
鷲羽山駅を過ぎ、東下津井駅を経由してなだらかに下っていき、最後は住宅地を大きく迂回して、下津井港の端にある終点、下津井駅で風の道は終了。フェンスで囲まれているため、駅に入ることは出来ませんが、近代建築好きには堪らない趣を持った駅舎で、遠望した車庫には電車も残っていました。
余談ですが、奇しくも風をタイトルに含んだ鮎川哲也の傑作『風の証言』(1971年)において、旦那刑事が下電に乗り下津井駅を訪れています(創元推理文庫版ではP.42)。廃線になった現在ではもちろん、駅や駅前はひっそりとしていますが、『風の証言』を読む限り、33年前でもひっそりしていたようです。
下津井駅到着は10時20分。バス停で帰りの下電バスを確認すると、事前調査通り11時25分、その次になると13時35分。この11時台のバスに乗るために、一般に2時間で歩く行程を1時間強で歩きました。当方は歩くのは速い方ですが、写真を撮りまくりながらでも、楽しい道だったのでさくさく歩けました。
バスまで1時間しかないので早速、町並み保存地区にも指定され、鹿賀丈史主演の角川映画『悪霊島』(1981)のロケ地にもなった古い町並みへ。小さな港町で規模が物足りなかったものの、江戸時代に金比羅詣での出発地、風待ち港として栄えていた頃を偲ばしてくれる格子窓やなまこ壁は見事でした。
最後に歴史資料館であるむかし下津井回船問屋を見学して調度良い時間になったので近くのバス停へ。予定通りのバスに乗って12時前にJR児島駅に到着。12時23分のマリンライナーに乗って岡山、12時59分に伯備線へ乗り換えて倉敷の次である清音に13時22分到着。さらに井原鉄道に乗り換え。
13時34分に井原鉄道のワンマン1両が到着。1駅目の川辺宿で降りるので一番前に乗り込みましたが、窓が大きいため、シンプルな鉄骨組みの高梁川橋を渡る際の眺めはなかなかでした。川辺宿には13時38分到着、高架に描かれた金田一耕助と案内板を確認して、金田一耕助ミステリー遊歩道へ。
この遊歩道は『本陣殺人事件』や『獄門島』が書かれた横溝正史の疎開宅や横溝正史コーナーがある真備町ふるさと歴史館などを巡るコース。実は疎開宅を訪問するのは10年振り二度目、当時はコース整備も井原鉄道もなく、疎開時代のエッセイ『金田一耕助のモノローグ』から推定して訪問しました。
一応、スタートは川辺宿なんですが、井原鉄道は1時間1本であり、清音から歩く方が遠距離だけど便利だと思います。今回は連絡が良かったのと物珍しさで井原鉄道に乗りましたが、横溝正史が疎開時に利用しただけでなく、『本陣殺人事件』で金田一耕助が最初に降り立ったのが清音駅ですから。
閑話休題して、金田一耕助ミステリー遊歩道。川辺宿駅から2キロほど田んぼに挟まれた遊歩道を延々歩いていくと、真備町ふるさと歴史館に到着。横溝正史コーナーはお世辞にも充実しているとは言えませんが、再現された書斎、自筆原稿、当時の写真などもあり、ファンなら訪れて損は無いかと。
歴史館の背後には横溝正史の散歩コースであり、『空蝉処女』に登場した大池があり、対岸には『本陣殺人事件』が発生した一柳家の推定地とされる竹林も遠望できました。大池から少し歩くと10年振りの横溝正史疎開宅が見えてきました。以前は非公開でしたが、今では整備されて見学可能です。
受付のおじさんと少し世間話をすると、町で家を買い取って整備したとのこと。この家で、この座敷で当方が偏愛して止まない数々の傑作が生み出されたのかと思うと感無量としか言いようがない。音声案内が始まると突然、金田一耕助のシルエットが襖に現れるのは過剰演出な気もしますが、怖いし。
疎開宅を後にして、『獄門島』に名を取られたかも知れない千光寺、同じく『八つ墓村』での濃茶の祠、その横にあり横溝正史が座って構想を練った耕助石、『本陣殺人事件』で三本指の男が最初に登場した場所、山陽道の川辺宿の本陣跡を過ぎて、金田一耕助や横溝正史も渡った旧川辺橋を渡る。
早朝5時前に起床。京都から在来線で新大阪、のぞみの始発に乗継いで、8時19分には広島着。さらに、8時39分発の急行みよしに乗り、9時58分に終点である三次に到着。『朝霧の巫女』の舞台であり、妖怪マニアには『稲生物怪物語』で有名な土地。早朝ではないため、霧は山に少しかかっている程度でした。
当初は山陰地方を観光してから三次入りして宿泊、朝霧を堪能しようかとも思ったのですが、明日の目的地である毒ガスの島との兼ね合いで諦めました。『朝霧の巫女』で主人公、尋が到着したホームや三江線のホームを観察してから改札、そこで島根から車で駆け付けてくれた、大学時代の旧友K氏と合流。
車で回ってもつまらないので、徒歩で散策。駅近くの大型スーパーCCプラザ、市役所を抜けると、江の川の支流である馬洗川に架かる巴橋に至ります。『朝霧』で何度も登場したこの橋から四方を眺めれば、ここが盆地であることがよく分かり、西城川との合流点や稲生物怪の発祥地、比熊山も遠望できます。
橋を渡ると街が良い意味で古くなり、寺社の配置からもこちらが旧市街と分かります。鉄道が今ほど普通では無かった頃、駅は町外れに設置され、後に駅周辺が中心地になる事が多かったのですが、三次もかな。旧市街では、所謂「うだつが上がらない」という言葉にもなった卯建をアピールしていました。
河原をぶらついてから、本通り商店街へ。味のある建物が多く、デジカメで撮影しまくったのですが、その中で一際目立っていたのが三次銀行本店だった歴史民族資料館。稲生物怪のコーナーもあり、設置されたノートには「朝霧の巫女を読んで三次へ来ました」の文字ばかり。ここでは研究書を購入しました。
再び商店街に戻り、三上たばこ店脇の軒下をくぐって路地へ。こういう入口は情趣があり、京都ではよく見かけますが、他では少ない気がします。さらに三次フードセンター、そこから商店街を離れ、併走する国道183号線に架かる歩道橋へ、西側の三江線尾関山駅、桜並木のある土手へと歩きました。
そして、国道を北上して太歳神社へ。『朝霧』の主人公達が生活する稲生神社のモデル。予想よりこぢんまりした印象でしたが、拝殿まで石段があり、背後には比熊山がそびえ、雰囲気はなかなかでした。国道から外れ細田食料品店を過ぎ、旭橋から西城川を渡り、土手沿いに南下して馬洗川との合流点へ。
水道橋から馬洗川を渡って土手沿いの道を親水公園へ。主人公達が通う高校はこの公園に建っている設定らしいのですが、この日は物凄い光景が。1万台以上のハーレーダビッドソンが集まる大イベントが偶然にも開催されていました。とにかく凄まじい台数。さらに偶然ですが、会社の同僚も参加してらしい。
三次最後の訪問地、大型スーパーのイズミで休憩する頃には脚は疲れ果てていました。たった3時間半歩いただけでこれとは、運動不足を痛感。時間が勿体ないので、休憩もそこそこに国道184号線を南下して、午後3時には尾道に到着。チェックイン後、大林映画探訪の拠点マルコシ書店へと思ったら、無い。
仕方ないので、観光案内所でロケ地マップを入手。疲れた足を酷使して千光寺公園へ一気に登る。見下ろした街と尾道水道は一年振りでしたが、見飽きません。『転校生』の石段を過ぎ、タイル小路と思ったら撤去済み。理由は理解できたけど残念でした。最後に港周辺を徘徊、晩飯に刺身を食べて本日は終了。
今日も早朝、5時半に起床。散歩に昨日訪問し損ねた西願寺へ。尾道観光は基本的に駅の東側ですが、西側の高台にあるこの寺は当方が一番好きな邦画である『さびしんぼう』の舞台。ガイドにも載らない場所ですが、二度目ですので迷わずに坂道を上り到着。見下ろした薄明で青く染った街は幻想的でした。
折り返して直ぐにチェックアウト、三原に向かって西へ。7時半には三原港に到着。ここから高速船で渡る大久野島が今回の旅の最後目的地。朝飯にコンビニで買ったパンを噛りながらボーッとしていたら、港の隣で交通事故発生、救急車やパトカーが次々と来たけど、眠いのでさらにボーッと。しかし、不吉だな。
8時29分、高速船が出港。20分程で島が見えてきた。これが日本軍の要塞であり、イペリットや青酸など毒ガスを大量に製造していたために地図から抹消された島かと。戦後も毒ガス処理のため、米軍に占領されていましたが、国民休暇村として生まれ変わり、今では瀬戸内の明るい島の一つにしか見えません。
下船したのはK氏と自分だけ。当たり前だけど平和な風景、休暇村に遊びに来た子供達が駆け回っている所に場違いな二人。作業の安全を祈ったであろう大久野島神社に参ってから、毒ガス資料館へ。当時の防毒技術と意識の低さもあるだろうけど、多くを手作業に頼り、多数の犠牲が出たのが何とも重い。
背景も理解できたので、さっそく出発。釣りに興じる人達を尻目に島の南斜面にある消えかけの道を登る。目指すは南部砲台跡。開けた場所にやっと出たと思ったら何もない。いや、足元を見て吃驚。踏みしめていたのは堅固な石組み構造、砲台跡の上部でした。不謹慎でしょうが、興奮で震えを覚えました。
抜けるような晴天の下、今は平和そのものな島で砲台跡は圧倒的な存在感を主張していました。戦跡を見に来たのだから、そこに在って当然ですが、正直ギョッとしました。南部砲台跡を後に最上部を目指す途中、見下ろした先に蔦まみれの発電所跡を認めてもっと吃驚。こんな巨大な廃墟は見たことがない。
ルートの関係で発電所跡は最後。後ろ髪を引かれながら島の最高点へ。道かどうか分からない場所を彷徨った末に中部砲台跡を発見。レンガ造りの分厚い壁で出来た建物が実に綺麗に残っていて、南部砲台以上に興奮してひたすら観察。半地下に潜って探索するも完全な闇で断念。懐中電灯を忘れるなんて。
ひたすら島を登って来ましたが、次は島を縦断するようにひたすら下り。北部砲台跡を目指したのですが、道が消えかけていて少し迷う。見つかった道は海岸近くまでひたすら続く階段。昨日の三次と尾道の散策で疲れ、今日の登りで弱り切った脚には難行苦行。暑さでヘトヘトになり、蜘蛛の巣に引っ掛かりまくる。
下りきった先には北部砲台跡。中部砲台の方が大規模だったそうですが、構成はこちらの方が複雑で面白かったです。ここから直ぐに舗装路に出られ、ホッと人心地が付きましたが、少し西に行けば最大の毒ガス貯蔵庫跡。異様に分厚いコンクリート壁と毒ガス貯蔵タンクの基底部が往時を偲ばせてくれました。
残るは最後で最大の目的地、発電所跡。貯蔵庫跡から海岸沿いに周回道路を半周、上から見下ろした時も圧倒されましたが、近くから見上げた迫力には負けます。崩落の危険もあり、当然の如く立入禁止なので侵入はお薦めしません。怪我をしても馬鹿にされるだけですので、自己責任でのアホな行動です。
内部の様子は黒く錆びた窓枠が歪みガラスも割れているのに、白壁との対比で意外にも美しく感じました。何よりその巨大な空虚さに圧倒され、声が出ませんでした。中心で呆然としながら何度も見回しました。ほとんど何も無いのに、その入れ物が大きくなればなる程、逆に何かの存在感を感じるという逆説。
9時前に上陸して、2時間半が経過。強行軍になりましたが、12時過ぎの船に乗れないと次の便が16時前ですので必死でした。残りわずかな時間で野良ウサギ達をからかったり。日本軍の実験動物だったのが繁殖したとまことしやかに言われますが、デマだそうです。12時9分に乗船、客はまた当方らだけ。
三原港に12時32分到着。そこから呉線に沿って、尾道に続いて一年振りの竹原へ。江戸時代の町並みがそのまま残る町並み保存地区が有名ですが、当方を含め偏った人には『時をかける少女』の通学路として有名です。どちらにせよ、本当に素晴らしい町並みであることは確かですので、不便ですがお薦め。
この町並みには広島で2番目に古い酒造会社でニッカウヰスキー創始者の生家でもある竹鶴酒蔵があり、思わず利き酒をして1本購入。禁酒中なのにいつ飲むのやら。別の酒造会社の酒蔵交流館では、『夏子の酒』の尾瀬あきらの色紙を発見。意外でない場所だけど予想外。竹原を後に1時間程で再び尾道へ。
尾道での目的は昨日食べ損なった、大林宣彦監督が日本一と言う尾道ラーメンの有名店『朱華園』。行列に並んでまで食べた感想としては、日本一かどうかは流石に分からないけど、確かに美味い。しかも、たったの460円。全ての目的が果たせたので、島根に帰るK氏と別れ、山陽本線と新幹線で京都へ帰還。
往復2万円で沖縄まで行けることから計画された今回の旅行。どこに行くかが決まったのは昨夜。相変わらずいい加減だけど何とでもなるから。京都からはるかに乗って関空へ、先着していたW氏と合流。これもいつもの面子。
1ヶ月ぶりの再会を祝していきなり飲み出したら、W氏に仕事の電話。飲んで電話、飲んで電話を繰り返していたら、出発時間5分前。久しぶりに沢山のスチュワーデスさんに迎えられてというか、急かされて搭乗する羽目に。
何だか先行き不安というか、旅にも暗雲たれ込めるというか、早起きで酒飲んでダッシュでグッタリして到着した那覇は曇り空。半年振りということもあり、すっかり見慣れた風景。試運転しているモノレールは初めて見たが。
タクシーで泊港へ。昼飯にゴーヤチャンプルなどを食いながら、キンキンに冷えたオリオンの生ビールで乾杯。美味いなあ、沖縄に来たんだという実感は先ず食から来ました。沖縄で一番に楽しみにしているのは食ですから。
到着したフェリーに乗って座間味島へ。今回の目的地は日本一美しい海とも言われる、ホエールウォッチングとダイビングで有名な慶良間諸島。そこでひたすらのんびりする予定です。酒を飲んで寝て1時間半で座間味港到着。
シーズン前ということで観光客らしい人は見かけず。取り敢えず決めた民宿に着いてみれば、異様に侘びしい佇まい、高齢の御主人もこちらの言葉が伝わっているのか怪しげ。気配が無く、離島時まで再会できませんでした。
もう夕方でやることもないので、港周辺を散策。W氏は東京、スペインに仕事の電話。先方も南の島から電話されているとは思わないだろうというか、W氏も散々。W氏は徹夜明け、朝一で羽田から関空、そして沖縄ですから。
港の外れで、実は楽しみにしていた物を発見。それはマリリンの像。犬が海を渡る『マリリンに逢いたい』(1988)という映画を憶えている人もいると思いますが、本物のマリリンが住み、映画の舞台にもなったのが、座間味でした。
暗くなってきたので、地元の人しか行きそうにない飲み屋を探索。苦労して見つけた一軒目の雰囲気が良く、一発で大当たり。沖縄料理を食いつつ、オリオンビールと泡盛が空いていく。この至福の時間のために来たんだよ。
途中で来店した、仙台で中学教師をしているという英国のニーちゃんとオーストラリアの彼女にも泡盛を勧めて、怪しげな英語で会話。地元の人も合いの手を入れて良い感じに盛り上がる。気が付けば、泡盛も2本目に突入。
一体どれだけ飲んだのか、完全に酔い潰れつつもお金を払って民宿まで帰還。街灯がほとんど無いため、本当に真っ暗闇。晴れていれば夜空が凄いんでしょうが、曇り空。泡盛のボトルをキープしたので、明日も同じ店に決定。
潰れるまで飲んだのは何年振りだろうか。楽しい酒だったから良いのですが、起きてみれば結構な時間。空を見上げれば、昨日の曇りから雨降り寸前にまで悪化。TVの天気予報でも最悪の予報。沖縄の青い空は余りに遠い。
飲み食いがメインにせよ、座間味で海に入らないのは流石に勿体ないので、集落で唯一のスーパーで弁当を買ってから、20分程歩いて古座間味ビーチに到着。空模様は悪化して小雨、そして当然のように誰も居ませんでした。
海は確かに綺麗なのですが、雨空を反映して今一つ。それ以上に問題だったのが、高い波と低い水温。ついでに最初は勘違いして遊泳禁止区域に入っていたので、打ち上げられたサンゴが痛くて散々なコンディションでした。
それでもなお、意地になって泳ぎましたが、体感として本当に怖い。しかも間抜けにも、10数年振りに泳いだら、すっかり泳げなくなっていたことも判明。水中眼鏡で見れば綺麗な魚が平和に泳ぎ、見ている自分といえば、無様。
疲れ果てて、波打ち際でぼーっと黄昏れていたら、更に高くなってきた波に打ち倒されたり、大雨になってきたため撤退決定。寒さに震えつつ、スーパーで買った弁当を食べながら、少し無茶だった気がするなあと今更な感慨。
客が全然居なくて暇そうな浜茶屋の御主人に訊いたところ、今年は梅雨入り後も雨が少なく、まとまった雨が降ったのは久しぶりで、ダムの貯水量が減ってきていたので助かるとのことだけど、よりによってこの日に降らなくても。
また暗くなってきたので、昨日と同じ飲み屋へ。昨日と同じく生ビールから泡盛へ速やかに移行。店は昨日以上に繁盛して超満員で盛り上がっていたけど、今日は疲れ果てているためか酒が回りに回って、たった3時間でダウン。
最後は沖縄そばで締めたかったので、飲み屋で教えて貰った食堂で一杯。今回の沖縄行で初めてのそばでしたが、やっぱり好きだなあ。島とうがらしをぶっかけて、懐しい味を再確認。当方は帰って寝たけど、W氏は飲み直しに。
朝起きてみると、昨日以上の大雨。フェリーがちゃんと運行されるのか少し不安。宿を出ようと御主人を捜すもなかなか見つからず、予想外のところに寝ているのを発見。前にもも書いたけど、全く没交渉というか謎の存在でした。
港に荷物を置いたもののやる事もないので、近くの軽食屋パーラーザマミのハンバーガーで朝飯。島には野良猫がやたら居ましたが、食べている内に2,3匹が寄ってきたので、ハンバーガーを千切っては投げ、千切っては投げ。
更に時間が余ったので、後回しにしていた慶良間海洋文化館へ。日本軍の特攻艦や魚雷など沖縄戦関係と琉球時代の交易資料を館長自ら説明してくれ面白かったけど、興奮の余り太い指示棒が飛んでいったのが怖かった。
知らなかったのですが、慶良間諸島は沖縄戦で最初に上陸された場所で、多数の自決者が出たそうです。もう時間も無いので、船で飲む酒をスーパーで買って港へ。しばらくするとフェリーが到着。遂に座間味島ともお別れです。
W氏が買った『シロとマリリンの追憶』を船室で読んで吃驚。シロとマリリンの物語は琉球新報が報じたのがきっかけで、全国に知られ映画にもなったのですが、その記事を書いた人こそ当方らが毎晩飲んだ飲み屋の御主人でした。
島に滞在中に知っていれば色々と聞けたのに残念。飲み屋の在り方としてはそれで正しいんだけど、馬鹿話しかしなかったなあと思いながら、シークアーサーチューハイが効いて熟睡。気が付けば、那覇の泊港に戻っていました。
タクシーで国際通りへ。昼食にソーキそばを食べ、お土産を発送した後、W氏は三線専門店へ、当方は製菓屋で買ったサーターアンダギーを噛りながら、地元の商店街をぶらぶら。半年振りで新鮮さはないけど、落ち着きますね。
W氏と合流して那覇空港、最終便で大阪へ。伊丹空港への着陸態勢に入った途端、トラブルが発生して上空待機となり、異音も流れてビビらせてくれた事が、この怠惰な旅の掉尾を飾ってくれました。何よりこうしてネタになりますし。
我ながらいい加減だが、那覇までの航空券を買っただけで当日を迎えてしまった。同行者はカンボジア、みちのくと一緒に無茶をしたW氏。計画を立てると言ったW氏からの旅行プランは当日になっても届かなかった。まあ、当方らの旅行はいつもこんな感じだが。
前日の忘年会で体調は絶不調。関空から那覇へ約2時間。那覇空港に着いてみれば、あいにくの雨でしたが、とにかく暑い。温度計を見れば20度オーバー。暑さでボンヤリたそがれていたら、羽田からのW氏も到着。W氏も昨日が忘年会で徹夜状態。何だかなあ。
タクシーが安いとのことで、首里城近くまで乗車。W氏から沖縄のタクシー運転は荒いと聞いていたが、確かに車線変更がかなり無茶な感じ。ただし、道路状態が良くないのと交通量が多いので、スピードは妙に遅い。道路に関しては米軍施設が邪魔なんだろうな。
昨日、W氏が首里城近くの民宿を予約したとのことでチェックイン。宿のおばちゃんに傘を借りて首里城へ。途中、おばちゃんに教えて貰った店で沖縄そば。おにぎり付きで500円也。辛いモノが好きなので、島とうがらしをぶっかけてかき込む。美味くて安くて満足。
そして首里城。往時の勇壮さは伝わってくるものの、実は再建部分にはあまり興味が無いひねくれ者ですので、古い遺構に注目して拝観。古写真に残る姿が沖縄戦で破壊され尽くしたのが残念。ただ、その石組みなどをじっくり観察するだけで圧倒されました。
再びタクシーで沖縄観光の中心、国際通りへ。W氏の友人N女史が奇遇にも沖縄に来ていたので、合流して飲むことに。国際通りは完全に観光地化されているので、安く美味く飲むためにタクシーの運ちゃんから観光客が少ない地元の飲み屋を紹介して貰う。
N女史とは直ぐに合流。彼女の希望で牧志公設市場へ。解体された豚が有るのは当然として、熱帯魚みたいな魚を食べるのには少し引く。食材を選べば2Fの食堂で食べられるので、社会人マネーで1万円分のエビと魚を選択。オマケをねだってシャコ貝ゲット。
3日前に来た高橋尚子のサインを背後に酒盛り開始。1万円の大部分を占めたエビ、オマケして貰ったシャコ貝の美味いこと。お造り、味噌仕立て、唐揚げ、食で癒されるとはこういうことか。泡盛のペースも加速して、1瓶を空ける頃には何も考えられない状態。
でも、これでは終わらない。十分満足するにはしたのですが、沖縄料理で泡盛が飲みたいという欲求を満たすために、タクシーの運ちゃんに聞いた店で飲み直し。ゴーヤチャンプルーなどを食った記憶はあるが、更に泡盛を1本空けたので記憶がかなり怪しい状態へ。
ご機嫌な状態でN女史とはお別れ。お互い変わった仕事に従事しているとはいえ、酒飲み話が仕事関係になるのは社会人だからかなと思ったり。とにかく楽しい一夜でした。タクシーで宿に戻り、風呂で一服してから就寝。寝る前に見下ろした夜景は絶品でした。
昨日は夜景でしたが、首里城近くの高台から見下ろす朝の那覇市街も異国を感じさせて良い感じ。フランス支配を経た東南アジアがその雰囲気を未だ残しているように、米国風と元々の琉球風が入り混じって、明らかに「違う」独特な雰囲気を醸し出しているなと。
民宿の朝食はゴーヤチャンプルーが付いている以外は焼き魚、豆腐、味噌汁など、絵に描いたような日本の朝食でしたが、宿のおばちゃんに豆腐にも味噌汁にも島とうがらしをかけるのが沖縄流と言われ試してみる。成る程、これはこれで楽しく美味しい沖縄流。
朝食後、レンタカー屋に迎えに来て貰って民宿とおばちゃんとはお別れ。ちなみに宿泊したのはペンションなかはらという所ですが、おばちゃんの人柄もイイ感じで、料理も美味くて文句無し。リピーターも多いそうですが、実に納得というかお薦めできる宿でした。
レンタカーに乗って南へ南へ。先ず向かったのが、旧海軍司令部豪。激しい攻防戦の末、集団自決した地下壕がそのまま残っており、ウネウネと続く薄暗い壕内を徘徊していると、どんどん口数が少なくなっていきます。外の抜けるような青空と比して余りに重い。
参謀らが自決した司令室には「滅不州神」、「滅覆米醜」と記され、ボコボコな壁があると思えば、「幕僚が手榴弾で自決した時の破片のあとがくっきりと残っています」との解説文が。当方らは悪趣味系の人間ですが、流石にこのリアルの前では喜べても騒げない。
さらに南下、最果てを目指す。畑の中に延々と続く狭い道を抜けると、突如広がる断崖絶壁、沖縄戦最大の激戦地である喜屋武岬。南に追い詰められた日本兵、住民に向け、数百万発の砲撃が加えられ、地形は変わり果て、かなりの人が飛び降り自殺した地です。
そこには今や平和の塔があり、低いながら柵が出来ています。当然ながら乗り越えて真下を覗いたら吸い込まれそう。腰が引けてしまったので柵を越えて戻ったら、パトカーと警官が。偶々、塔の陰で見付かりませんでしたが、バレたら説教を食らったことでしょう。
今では青い空と海が広がるこの地に地獄が現出したとは信じがたい。2年前に訪れたカンボジアのキリングフィールドでもそうでしたが、余りに現実感が無いなと。何だか「重い」ところばかり回っているなあと思いながらも、それ系では一番有名であろうひめゆりの塔へ。
献花を買い、ひめゆり学徒ら数十名がガス弾で殺された壕の前に供え手を合わせる。実はこの時点で、ひめゆりの塔が何なのか良く知りませんでしたが、併設のひめゆり平和祈念資料館で死因が記された犠牲者の写真パネル群に囲まれながら、証言を読んで絶句。
気分を変えようと間近な海、玉城村の奥武島へ。途中、良い感じに寂れた食堂でチャンポン。チャンポンとは長崎のそれではなく、野菜、ポーク、卵を炒めて御飯にぶっかけた沖縄独自の料理。これも美味しかったというか、沖縄に来てから美味い物ばかりでした。
奥武島は特に観光地ではないのですが、干上がった珊瑚が広がっていたので散策。潮溜まりでヤドカリやナマコをつついて呆ける。遠くには隆起した珊瑚に沿って立ち上がる波頭が見える。いや、平和ですね。気分を晴らすため沖縄に来たんだっけ、忘れていた。
すっかり平和な気分になったので、次の目的地である知念村の斎場御嶽へ。琉球王国最高の聖地であり、世界遺産でもあるここは複数の巨岩と拝所からなり、その大きさと鬱蒼と囲い込む樹林に圧倒されました。詳しくはないけど、イワクラ信仰にも通じるのかな。
中でも2枚の巨岩から三角形のトンネルが形成された三庫理は距離感を失わせるスケール。そこを抜けた先にある拝所からは海と神の島だという久高島が望まれ、なるほどこれは聖地だなと。場所は全然違いますが、摩周湖の神の島カムイシュを思い出しました。
本島南部からひたすら北へ、中部の宜野湾市へ。察しの良い方ならお分かりでしょうが、あの普天間飛行場がある街です。地元の人には失礼かも知れませんが一度拝んでみたかったんです。基地に近付くにつれ、英語表記が増して米兵や軍属らしき姿もちらほらと。
迷わず正面ゲートへGO。何故か止められないので、更に進むと屯所が。流石にビビって米兵の数メートル前でUターン。後続車の金髪女性に笑われる。アホだ。この時に気付いたんですが、基地関係者のナンバープレートは、平仮名部分が英文字であるだけです。
普天間飛行場からしっぽを巻いて更に北へ、極東最大の空軍基地である嘉手納基地に隣接する沖縄市へ。コザ市という旧称で記憶していて、沖縄県に沖縄市があることを知りませんでしたが、改称から28年経った現在でも、コザという名前は方々で見かけました。
今日の宿はコザに決めていたので、適当なホテルにチェックイン。料金は1人3,500円と異様に安い。門限は無いので勝手に出入りしてOKとのことで、鍵はどうするのかと訊いたら、フロントから勝手に奪って構わないとのこと。流石は3,500円というか、大丈夫か。
まあ、気にしても仕方が無いというか、気にしない方なので飲みに出る。しかし、沖縄料理で飲める店が見付からない。やたらデカい外人さん達が徘徊していると思ったら、彼ら向きのバーとかショーパブばかり。普通の飲み屋かなと思いきや白木屋で意味がない。
あと、外人さん達の中心であるゲート通りは違った意味で面白かった。雰囲気が怪しく柄が悪いのはさておき、似非オリエンタリズムが爆発していて、チャイナ服やカンフー着の専門店があり、刺青屋が繁盛していたり、日本が誤解されていく様子がまざまざと。
肝腎の沖縄料理で飲める店は1時間近く徘徊してやっと発見。疲れが溜まっているので酒が回る回る。チャンプルー各種にラフテー、スク豆腐、トーフヨーとベタなセレクションを肴にオリオンの生ビールから泡盛へ。迷惑な電話をかけつつ、今日も1瓶空けました。
すっかり出来上がったので、最後は沖縄そばで締めようと探したらまた見付からない。村さ来とかはあるのに。地元の人は家で作るからニーズがないのか。タクシーの運ちゃんに美味しいそば屋を教えて貰ったら札幌ラーメン。確かに美味しいのかも知れないけど。
もはや意地。風俗の呼び込みに教えて貰って、遂に沖縄そばにありつく。シンプルなせいか、どこでも外れ無し。店内のTVに映るパリの街並をボーッと眺め、夜は更けていく。何だかとても遠くに来てしまった気がしてきた、実際の距離以上に。さて、明日は最後日。
泡盛は今日も残らず、素晴らしい酒だと再認識。高度数の酒なんだけどなあ。陽光の元で初めて見たコザ市街を後に、海を目指してひたすら東方の与那城町へと。今日の第一目標は海中道路、島に向かって海上を真っ直ぐ、何と5キロも延びているそうです。
イメージとしてピンと来なかったんだけど、百聞は一見にしかず。青い空と海の境界に向かってただ真っ直ぐ延びていく道をひた走る。ひたすら青い青い、沖縄に来て最も綺麗な海、それ以上に感動的なまでに広い空。柄にもなく爽やかな気分になっていきます。
対岸の平安座島から浜比嘉島に渡り、砂浜をぶらぶら。寄ってきた野良犬と遊んでいると、メメクラゲならぬハブクラゲという気持ち悪い立看板と共に酢箱という箱を発見。クラゲに刺された時に酢をかけるそうなんですが、良くあるモノなんでしょうか。初見でした。
平安座島に戻るとスケール感を狂わせるぐらい巨大な石油タンクが見えてきました。海中道路の建設を条件に米国の石油基地を誘致したものだそうです。怪獣がいれば絵になるなあと不謹慎にも思ったり。タッコング。最果ての伊計島まで回ってから本島へ帰還。
すっかり昼になっていたので、適当な食堂に入ってソーキそば。これが最後の沖縄料理になったのですが、ソーキ(豚のあばら肉)が良く煮込まれていて美味。この旅では、観光客向けの店を外した方が美味いに違いないと思い行動しましたが、正解だったかな。
与那城町から隣の勝連町へ。海中道路への途中、山頂を覆う城壁が見えて気になったんですが、それこそが世界遺産、勝連城跡。その城壁の規模はもちろん、山頂それも断崖ぎりぎりまでという立地に吃驚、まさに天空の城。外壁にも登りましたが、本気で怖い。
旅の終わりに向け、再び那覇を目指して沖縄自動車道をひたすら南下。レンタカーを返して、国際通りでお土産というか泡盛を物色。古酒家本店の地下で古酒を試飲。自分用に泡盛の原酒、酒好きの作家涼元悠一氏へのお土産にハブ酒を購入。酒ばっかだな。
同行者W氏がこの旅というか、普段から持ち歩いている三線(サンシン)の修理のためちんだみ工芸へ。ご主人の見事な演奏を拝聴したり、W氏が愛機をつま弾いたり。東京の空の下、今もどこかの飲み屋でW氏が弾いているんだろうな。楽しい気分になりながら。
国際通りから外れて地元の商店街へ。観光客向けにパッケージされたお土産より普通に売っているモノの方が美味しいと思っているので、サーターアンダギーを袋詰めで購入。別に島とうがらしを買ったら、オバチャンが黒砂糖もオマケしてくれたり。人情に感動。
バスで那覇空港へ。速攻で手続きを済ませ、ロビーでミミガーチップを肴にオリオンビールで乾杯。心は休めたけど、身体は酷使したかも。まあ、充実という意味では十分以上だったから。W氏は羽田へ、当方は伊丹へ帰りますが、また訪れたいそんな旅でした。
仕事を終え帰宅してから駅へ、のぞみ最終号に乗って日付が変わる直前に新横浜に到着。以前、カンボジアで同行したW氏と合流して、ひたすら北への徹夜ドライブを開始。正直なところ、とっても眠たくて危険な感じ。事故渋滞に遭遇したとはいえ、お昼過ぎに青森の県境に到達。それにしても青森は遠いですね。東京から700キロ。
第一目標はキリストの墓。ムー読者には説明不要でしょうが、キリストは処刑されずに戸来村(ヘブライの転化、現在の新郷村)で106才まで生きました。丘の上には確かに十字架墓が存在し、今も残るユダヤの風習や5万年前のピラミッド。村ぐるみで割りと本気のようですが、信じる信じない以前に出典があの『竹内文書』というのが。
続いて八戸近くにある蕪島へ。日本一のウミネコ繁殖地であり、産卵期の今が見頃というか恐怖の季節。何せそれほど大きくない島に数万羽のウミネコが集結して、人がいようがお構いなしで飛び交いまくり、糞を落としまくる、まさにヒッチコックの『鳥』状態。今回の旅行で最もインパクトを受けた場所でした。興味深いが、本気で怖い。
宿無しというか、元から野営予定だったので米軍三沢基地の隣でキャンプすることに決定。途中で買った魚介類を適当に調理して夕食、まあ、酒さえ飲めれば取り敢えず問題無し。ただ、陽が落ちても基地上空が赤く光っていて不気味なのが難点かも。三沢の皆さんは慣れているのかも知れませんが、浮世離れした異様な光景です。
旅の醍醐味は温泉。年を取ったためか、社会人になってから温泉好きになりました。今回は三沢空港前の空港温泉(料金は何と250円)。露天風呂もあり満足。体も温まったところで寝ようと思ったのですが、異様に寒い。実はこの時の気温は6度、青森でキャンプの季節はずっと先のようです。いきなり拙い展開ですが、キャンプ決行。
最初に訪れたのは寺山修司記念館。サーカステントような外観で、壁には天井桟敷メンバーのメッセージ入り陶板が埋め込まれ、内部は天井桟敷のセットでが構成されています。資料展示も机の引出しを懐中電燈で照らして読むなど洒落ています。机に座った途端、声が流れたり、映像が天板に映される演出も寺山に相応しいです。
三沢から下北半島を北上して原子力で有名な六ヶ所村へ。ここには原子力の素晴らしさを伝える六ケ所原燃PRセンターがあります。パンフは『Let's
try ほうしゃせん!』、マスコットはプルト君とウランちゃんと素晴らしいセンスです。ゲームも線量計付きドライビングゲームなど充実。良い子の皆んなも原子力と友達になれることでしょう。
更に北上して日本三大霊場、恐山へ。火山性の亜硫酸ガスが漂い、岩石だらけの荒涼とした噂通りの地獄風景。しかも、やたらカラスが飛び交っていて情趣を加えています。あと、『鳥頭紀行』で西原理恵子が不味いと怒った霊場アイスを食べましたが、確かに不味い。そもそも、まだ雪が残っている恐山でアイスを売るのが無茶では。
下北半島には温泉も多いので、奥地にある奥薬研温泉かっぱの湯(無料)へ。千人入れる巨大な湯船は川の脇で、近くの橋から丸見えなのに混浴の露天風呂。たとえタオル巻きだとしても、勇気を出して入浴する若い娘さんは称賛に値すると思いましたが、目のやり場に困りました。温泉自体は景色が良く、湯加減も良く満足でした。
今度は下北半島をひたすら南下。途中、菜の花で有名な横浜町で菜の花ソフトクリームを発見。変なソフトクリームを食べることを密かなライフワークにしている当方は当然入手。黄色いのは当然として、蜂蜜ベースの味わい。菜の花入りとのことでしたが、そもそも菜の花の味ってどんな味なんだろう。色々と謎でしたが、普通に旨かった。
下北半島の付け根まで戻り、大湊線の始発駅である野辺地へ。地元の人で繁盛している飲み屋でナイターを観ながら夕食。味がきちんとして激安なのは嬉しいが、お店の雰囲気が巨人ファン率が高いようで関西人には居心地が悪い。その後、駅近くにある野辺地温泉(料金は350円)でさっぱり。露天風呂が無かったのだけが残念です。
そして懲りずに今夜もキャンプ決行。しかも、陸奥湾を見下ろす高台で風が強い。キャンプ場の管理人さんも寒いから止めた方が良いとの御意見。昨日は防寒着すらない状態でしたが、今日は一歩前進して、使い捨てカイロを調達してました。焼け石に水のような気もしますが、地酒でさらに酔いを深めた当方らに恐いモノはありません。
海岸沿いに西へ向かい青森市へ。県庁所在地だけあって都会。青森駅と青函連絡船を見学。青函連絡船が現役だった頃、駅構内から陸橋を伝わって直接に船に乗り込めたそうです。今でも陸橋の一部が残っているのが印象的。探偵小説マニアの当方としては、某探偵小説のモチーフになった海難事故に思いを馳せてしまいますが。
今度は津軽半島をひたすら北へ。太宰治が『津軽』で「文字どほり、路の尽きる個所である」と記した竜飛岬に到着。この下を貫いて青函トンネルは松前半島に至ります。太宰の碑もありますが、ここへ来た目的は日本で唯一の階段国道(339号)のため。その名の通り、階段なので車は通れません。こんな国道があるのをご存じでしたか。
階段国道を登り切った先にあるのが、石川さゆりの名曲『津軽海峡冬景色』の記念碑。ボタンを押すと「ごらんあれが竜飛岬、北のはずれと」と二番だけが流れます。かなり巨大な音声で恥ずかしい装置ですが、ここからの眺めは最高でした。遂に本州の最果てまで来たんだなあとという実感がより深まっていきます。本当に演歌の世界。
後は引き返すだけなので、津軽半島西岸をひたすら南下して七里長浜へ。8年前にロシアの大きな貨物船が座礁しました。この船が数年間も放置されたままになっているとの情報を頼りに探し回りましたが跡形もありませんでした。今回の旅行で唯一の空振りでしたが、流石に撤去されたということかな。まあ、探す方も探す方なのですが。
気を取り直して最後の目的地、五能線の木造駅へ。木造は有名な遮光器土偶が出土した町ですが、駅まで遮光器土偶の形をしています。とにかく大きくて冗談みたい、しかも電車が通ると眼が光ります。隣の公園にある公衆便所も竪穴式住居型で徹底した古代趣味。これが旅の最後というのが、何とも自分らしい選択だったと思います。
午後6時半、東京に向けて出発。仮眠を挟みながら南へ南へ。11時間後の午前5時半、東京駅に到着。横浜へ帰るW氏と別れて、午前6時発のぞみ号始発で京都へ。午前8時15分に京都駅着。これにて、今回の旅行は終了。突然思い立ち、深く考えないまま決行した旅行にしては濃い内容だったと思います。しかし、青森は寒かった。
取り敢えずはバンコクへ。タイ航空TG523、関空発11:45、バンコク着15:35。約6時間のフライトを経てバンコクに到着。深夜到着のW氏との合流まで時間があることから、日本で知り合ったタイ人P氏に連絡して遊んで貰うことに。空港から市内中心部までは結構な距離でしたが、直通バスを待つのが面倒なP氏に連れられるまま複数のバスを乗り継いで中心部に到着。
バンコクの街並みは復興期の日本に似ている感じがしました。『人狼』という映画をご存じでしょうか、ああいう感じ。タイ独自の雰囲気はありますが、どちらの街もとにかく発展していこうと指向する熱気を感じます。もちろん古いだけでなく、近代的なビルも乱立していますし、やたらコンビニもありますが。その混沌が面白くて魅力的。ミスタードーナツは不味かったけど。
雨季も終わりに近づいているそうですが、スコールに遭遇。バケツをひっくり返したような激しさ。驚いたのは、傘を持っている人が少ないこと。大部分の人は雨宿り。30分もすれば晴れ上がるのでしょうが、それを呑気に待てるゆとりは国民性なんでしょうね。日本人なら待つ人は少なそうです。雨が街の臭いをより引き立たせて、本当に異国に来たんだなあと再認識。
食事のためにマーブンクロン・センターへ。とにかく巨大で綺麗な建物に圧倒。現地の日本人がよく利用する東急も入っています。ここでP氏とタイカレーで昼食。チキンレッドカレーと魚のカレーも戴く。タイカレーが好きで、このためにバンコクに立ち寄ったようなものです。「美味い、日本円で幾らぐらいですか」「90円ぐらい」「げっ!安いですね!」。実はバンコク入りしてから、交通費も食費も全てP氏におごって貰っていたので、物価を理解してませんでした。
食後、仕事に戻らなければいけないP氏と別れて、一人でバンコクオタク事情を観察。グッズ関係を軽く流した感じでは、バンコクでピカチューとたれぱんだが人気のようでした。ピカチューは分からないでもないが、何故にたれぱんだ。ミスタードーナツでもたれぱんだグッズがオマケに付いていました。どの辺が受けているんだろう。あと、デザインが変な偽物を探すも見つからなかったのが残念。
ゲームはやはりプレステが強い。PS2も正規版か不明でしたが一応ありました。ゲームソフトは違法コピーばかりのようで、安いのになると100円程度。ギャルゲーを探すも絶無。日本語表記では仕方ないかと思っていると、違法ですが、日本のギャルゲーの画像集発見。ネタとして買おうと思ったら、なんと6000円。カレー1皿やゲーム1本が100円の世界で6000円ですよ。ネタへの投資には辛いので流石に買いませんでした。
オタク探索に夢中で、気が付けば午後9時。ホテルに帰ろうとタクシーに飛び乗れば、メーター未使用=ぼったくりタクシーでした。失敗したと思いながらも、「ホテルはここやけど、なんぼ懸かるねん(英語)」と訊ねたら、英語が分からないらしく降されました。助かったのは良いのですが、道の真ん中で降されるのはどうも。二台目は良心的なタクシーでで無事ホテルに到着。
ぼーっと待っていると、午後11時にW氏が到着。再会を祝うビールを買い出ると、女性の写真を持った怪しいオッサンが接近。「おおっ!流石はバンコク!」と間違った感慨を抱きつつも無視。まあ、女性を買う買わないはさておき、タイでもカンボジアでも非常にスラッとしてスタイルが良い人が多いように思えました。同じ米を食べているのに何が違うんだろ。長粒種だからか。いや、冗談ですが。
遂にカンボジア入国。シェムリアップ空港は国際空港なのに田舎の無人駅のような感じ。カンボジア入国にはビザが必要なので、申請書、写真、20ドルを提出し入国承認。取り敢えず、タクシーを雇い出発。道が未舗装どころか、ボッコボコで水たまりだらけ。安宿を求めて二人で17ドルで泊まれるところを運ちゃんに紹介して貰う。何だか怪しげな中国人が経営するゲストハウス。表の泥道には怪しげな商店が建ち並んでいるなと思ったら、メインストリートらしい。カンボジアでも主要都市らしいが、それでこの規模なのかと色々考えさせられました。
タクシーに揺られながら、密林を眺めていると巨大な堀割の向こうに塔らしきものが、「あれがアンコール・ワットだ」と運ちゃん。アンコール・ワットを初めて知ったのは小学生の頃で、その頃からの自分の眼と脚で味わいたいと思っていました。今、長大な石敷参道に自分の脚で立ち、正面に遙かにそびえ立つアンコール・ワットを自分の眼で捉えられた感動は言葉で巧く表現出来ません。ただただ、本当に感動したとしか言いようがない。
感動を噛み締めていると、周りに人の気配がして「オニーサン!エハガキ!」、「ガイドは要らないか?」、「ジャパニーズ?」。取り囲んでたかろうとする子供達。中には露骨に小銭をせびるの子供も。噂には聞いていましたが、結構しつこいです。完全に黙殺すれば諦めて去っていきますが、日本からのツアー旅行のオッチャン、オバチャンはその愛らしさに負けるらしいです。民族性でしょうが、西洋の方々がクールですね。そして、無防備な日本人がカモられる。
アンコール・ワットは高さが60mもある中央塔を三重の回廊で囲む構造で、最も外側の回廊には叙事詩『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』が彫り込まれたレリーフが延々と続くのですが、一辺150mという長さと殺人的な熱さで汗が滝のように流れクラクラします。中央部にも登れるのですが、落ちたら死ぬような急勾配で高い階段。恐々と這い登りましたが、それだけの価値がありました。そこからは密林に広がるアンコール遺跡群が一望の下に眺められました。手すりも何にもなくて怖いけど壮観。
アンコール・ワット脇に並んでいた露店を通りかかると、一斉に「オニーサン!コーラ!ツメタイ!」と連呼されましたが、誰がこんな変な日本語を教え込んだのやら。取り敢えず、ミネラルウォーターを4,000リエル(1ドル)で購入。ついでにTシャツや絵葉書を売ろうとされましたが、「Tシャツ!5ドル、ヤスイ!」、「高い、要らん」、「Tシャツ!4ドル、OK?」、「ホンマはなんぼやねん」。別の露店で水を買い足そうとしたしたら、当方が最初に買った店にダッシュして売値を聞くオバチャン。値段なんて有って無きが如し。値切りまくっても、ぼったくられてるんだろうな。
腹拵えも済んだので、王都アンコール・トムへ。先ずは巨大な四面仏の微笑で有名なバイヨン。アンコール・ワット同様に中央の尖塔群を回廊が取り囲む様式。内部は暗く迷路みたい。突然現れた謎の老人に懐中電灯を渡され、言われるままに見ると暗闇の中に浮かび上がる井戸。老人は日本語で「イド!イド!」と叫んだ後、「マネー!マネー!」と手を差し出してきました(井戸の見物料なんでしょうが)。無視したところ、怪老人はしつこく追いかけてきました。ホラーです。結局、最後まで払わずに無視しましたが。
内戦時の破壊もあり、バイヨンを始め多くの遺蹟で大規模な修復作業が行われていましたが、オッチャン達のやる気はかなり無さそうでした。暑いためか、やたらと昼寝をしている人が多かったです。どう考えても、遺蹟を修復するスピードより荒廃するスピードが速いような気が。自分の目でアンコール遺蹟を見たい方は荒廃し尽くす前に訪れることをお薦めします。これは冗談ですが、アンコール遺蹟だけならタイ旅行のオプションで気軽に訪れられるようですから、考慮されてはと思います。
遺蹟の修復の一方で、荒廃するに任せているタ・プロームという遺跡もあります。樹木が遺蹟を押しのけるというか、破壊しながら生い茂って、『天空の城ラピュタ』のイメージそのまんまでした。ここでベトナム経由でやって来た日本人女性バックパッカーと知り合いましたが、こういう旅行をやっている女性には多いタイプで、気持ちの良い豪快さん。遺蹟を絡まる木によじ登る当方とW氏のアホな写真を撮って貰いました。
その後、次々と現れる執拗な売り子達と殺人的暑気に耐えながら、最後に向かったのがアンコール遺跡で一番高い位置にあるプノン・バケン遺跡。ここからの夕陽は絶品らしいのだが、見上げんばかりの急勾配の参道に顔面蒼白。弱り切った脚を考慮して、観光用の象の通り道を足を引きずりながら登る。傾斜が緩いのは良いのだけど、狭い道を巨大な象が行ったり来たりするのを擦れ違うのはかなり怖かった。
登り切ったところにあるプノン・バケンを見てみれば、6層のピラミッド型。ここで完全に脚にトドメを刺されました。気合いで急勾配の階段をダッシュで登ってみれば、そこに輝いていた夕陽。感動で声を失いました。凄いとか綺麗とか在り来たりの言葉しか浮かびませんでした。集まった旅行者達も同様にただ夕陽を見つめ続ける。これがアンコールで一番感動した瞬間でした。
宿に立ち寄ってから、夜のシェムリアップへ。メインストリートすら街灯がないこの街では陽が落ちれば真っ暗。暗い室内灯やランプの明りが漏れる中、怪しげな人々がうろちょろ。声を掛けられるだけで何をされるわけではないが、やはり怖い。怪しげなチケット屋で明日の船便(シェムリアップ〜プノンペン)を予約(25ドル)。店の奥では1時間6ドルでインターネットサービス。データ転送速度が遅そう。お客は欧米人ばかり、何もこんな所に来てまでやらなくても。
適当な店で晩飯。取り敢えず、カエル料理とスープを注文。アンコールビールを飲みながら、疲れを癒すというか、疲れすぎて食が進まず。カエルは普通の味でがっかり、スープは辛さ控えめのトムヤンクンという感じ。昼にカレーを食べた時にも思ったのだが、クメール料理は辛さ控えめのタイ料理なのかな。帰国後に調べたら、クメール料理はタイ料理をベースに香辛料が控えめの料理とのことでした。まあ、タイ料理より辛くないと言うだけで、十分辛いのですが。
疲れで良く染み込んだビールでご機嫌になりながら、屋根を見上げるとそこらじゅうにヤモリ。地面を見るとカエルが飛び跳ね、野良猫が戯れていました。ちょっと不気味ですが、疲れと酔いでどうでも良くなり、気になりませんでした。帰りはバイク乗りを500リエル(13円)で雇い、後部座席に乗って宿まで疾走。酔いの陽気も手伝って爽快感がいや増していきました。
昨日に引き続き5時半起き。街は真っ暗。昨日のチケット屋によると港まで車で送ってくれるそうだが、次から次へと怪しげなタクシーやバイク乗りが自分の車に乗れと寄ってくるので混乱。プノンペンへの船便は午前7時発の1日1便のみだから乗り損なうと悲惨。不安で呆然と立ちすくんでいると、さらにタクシーやバイク乗りが群れてくる。カンボジアの皆さんは早起きなのか。
何とか無事にチケット屋のライトバンに拾われたのは良いのだが、乗せられるだけ乗せる根性はどうにも。大荷物の乗客が15人は居てギュウギュウ詰め。街を抜け港へ向かうと、川が増水しているというか、土手が決壊している。道が思いっ切り沈んでいるのをどうするかと思えば、躊躇せずに突進。慣れているのでしょうが、なんともアバウト。よくもまあエンジンが壊れないものです。
30分ばかり冠水した道路を走った後、港に到着というか、これが本当に港なんだろうか。湖に張り出した一軒家にボロボロの木製桟橋が一本あるだけ。そこに不釣合なまでにデカいスピードボート。大阪の水上バスのような細長い船体の上には人の山。定員オーバーは普通で、救命具はもちろん不備、転覆することもある、強盗に襲われることもあるそうで、旅行の本などでは船では移動するなと書かれていますのでお薦め出来ませんが。
予想通り定員オーバーで船内は無理だったので、屋根の上に乗ることに。実はこの船は乗入れ口が一箇所しかないため、転覆すればまず助かりません。安全を考えると屋根の方が安全だそうです。ただ、屋根に脚を引っかけられる所がほとんど無いために結構怖いです。なにせスピードボートに名に恥じず、時速50〜60キロは出してきます。やはりというか当然というか、年に何人か船から落ちてしまうそうです。
船は直ぐに高速に達して、東南アジア最大の湖トンレサップへ。プノンペンまで220キロ、約5時間の船旅です。朝日に照らされたベトナム系の船上生活集落が何とも美しい。港で買った弁当、ご飯に照り焼きにした鳥と野菜がのっている物を食べながら、ひたすらノホホンとした時間。船の上を渡る風が怖くも気持ち良く、当方を含めた旅行者達は泥で汚れるのも気にせずに屋根に寝転がって眠りだす。ほんと長閑だなあ。
気持ちよく寝られたのも束の間、身体が焼けるような感覚で目覚める。何かと思えば、曇り空を貫いて強烈な太陽光線が射し込んできました。琵琶湖の10倍以上の大きさから、周りは見渡す限りの水平線で太陽を遮るものありません。しかも、こちらは屋根の上なので逃げようがない。道理で船便が早朝の一本だけなわけです。日が高くなってからなら、生命の危険があると思います。
出港から5時間。暑さにへばっていると、大きな橋が見えてきた。あれは何だと訊いたところ、カンボジア日本友好橋という何とも政治的な名前の橋で、港はすぐそこらしい。近づいてきた港を見ると、やっぱり木の桟橋が一本有るだけ。シェムリアップ港よりはマシという程度。正午過ぎ、やっとのことでプノンペン上陸。着いただけで疲れ果てた感がある。貴重で面白い体験だったけど、体力に自信がなければ飛行機が無難でしょうね。
上陸でホッと出来ると思って前を見ると大群衆。「あれ。何なのかな」と思っている間に取り囲まれ、ひっ掴まれて、「オレのバイクを雇ってくれ!」、「うちのホテルに泊まってくれ!」と怒号の嵐。自分がカリスマかオイルショック時のトイレットペーパーになった気分になれます。とにかく凄まじいパワーにひたすら圧倒。ただ一度の到着便に彼らの生活を賭けて必死なんでしょうが、本気で怖かった。
適当なバイクタクシー(モト)を1日5ドルで雇ってプノンペン市街へ。シェムリアップとの違いは舗装道が多いこと。もちろん、舗装されているのは主要道路だけで、その道すら戦禍のせいかボコボコになっているところが多いのですが。それと、交通量は多いのに、交通ルールなんて存在しないも同然でかなりのスリル。交通事故も多いそうですが、観光にはモトが最もポピュラーで便利な交通手段だそうです。値段交渉が面倒ですが。
先ずは宿を決めなきゃ始まらないので、運ちゃんに紹介して貰ったのが、繁華街の近くにある安ホテルで二人で20ドル。シェムリアップの時と同じく華僑系経営。華人がユダヤ人と並んで商売達者なのは有名ですが、カンボジアだけでなく東南アジア全域で経済的影響力を持っているそうです。確かにカンボジア人の商売人は押しばかりで、駆け引きがヘボいような印象を受けましたね。商売への姿勢も含めて、勝負にならないんだろうな。
適当に入った食堂で昼食。米の麺が入ったスープをすすりながら、ふと気が付く、「これから何処へ行ったら良いんやろ」。実は旅行計画段階で、「何となくカンボジアってマニアックだから、取り敢えず入国しよう」としか考えていませんでした。この時まで何の疑問も感じていなかったのには我ながら呆れますが、大学時代からW氏とは行き当たりばったりな旅行ばかりやってきたから、これが普通なんです。
取り敢えずバイクに跨って、プノンペンで一番の見所だという王宮とシルバーパゴダへ。入場券売場で並んでいたところ、ズボンの裾を引っ張られたので下方を見てみると、台車に乗った両足が無い乞食が帽子を突き出して「Please
Sir !(どうか旦那様)」。気が付けば、松葉杖の片足の乞食達にも囲まれている。地雷にやられたのは可哀相だと思いますが、平和ボケした日本人にはただただ圧倒というか怖い。
乞食の皆さんを振り切って、王宮見学。今もシアヌーク国王が執務中ということで一部しか見られませんが、金がふんだんに使われピカピカ。国民の貧しさとの矛盾はありふれた話ですが、こういう矛盾がポル・ポト派などの共産主義を招いたのも単純な流れかな。ポル・ポト派の統治時には、この豪華極まる王宮はもちろん破壊されました。ただまあ、その時代にはプノンペンの住人は農村に強制移住させられ、街はゴーストタウン化したそうですが。
続いてお隣のシルバーパゴダ。王室の仏教行事のための寺院なんですが、こちらもピカピカというか王宮以上に豪華。床には銀板が敷き詰められ、金銀製の仏像には宝石が埋め込まれまくっていて、感覚が麻痺しそうです。本尊は2000個以上のダイヤが散りばめられた黄金仏や、巨大なエメラルドから彫り出された仏像だったりします。感動するより、よくもまあここまでやったもんだと呆れました。帝政ロシア、ロマノフ王朝の金ピカ主義みたいです。
シルバーパゴダを拝観した頃から暑さにバテ始める。アンコールも暑かったですが、プノンペンは殺人的な暑気。この街では真昼が仕事にならないのか、公共機関であっても昼前から午後2時頃まで休むそうです。こちらも休んで汗を拭いていると、何故かタオルが黄変。まあ、綺麗とは言い難い街だし顔も汚れるかなと思ったのですが、顔が痛いし何か変。よく見てみると、「鼻からダラダラながれているこれってリンパ液やんか。顔面中が火傷や」。
想像だにしなかった事態に慌てるがどうしようもない。やたら痛いと思ったら鼻の皮がもげてきました。カンボジアではいつも長ソデを着ていたので腕は大丈夫だったのですが、そのせいで気が付くのが遅れたというか、せめて帽子ぐらい被れということですね。一番酷いのは鼻ですが、顔面全体が日焼けを超えて火傷になっていました。それどころか、強烈な太陽光線により眼が焼かれ、視力が低下して散々。
もはや気にしても仕方がないので、次の目的地である郵便局へ。途中、トンレサップ河岸では夕涼みする人々で溢れていました。露店も出て何とも楽しそう。夕方も暑いことは暑いですが、昼と比べれば穏やかでホッとします。さて、郵便局はフランス統治時代の名残りか立派な西洋風建築でした。早速、エアメールにカンボジアの酷暑への恨み言を書き連ねて投函。やや荒れていましたが、内戦で多くの建物が破壊されたのに比べればましでしょう。
最後に巨大なドームを中心としたプノンペン最大の市場、セントラルマーケットへ。日常品から貴金属まで商われて、凄い賑わい。外国人観光客も多いことから、地雷で脚をやられた乞食や同情を引くために赤子を抱いたオバさん乞食が付きまとってくれます。もちろん市場だけあって、一番しつこいのは商売人。特にしつこく付きまとわれたのはハンモック売りでしたが、いくら丈夫だと説明されても、木陰にハンモックを吊って昼寝をする日本人は少ないと思うのだが。
Mines!!(地雷危険)」と書かれたTシャツ。「おおっ、こういうのが欲しかったんだよ!」と喜んでいると、小学校高学年ぐらいの店番の娘さんに「これはPolo!これはアディダス!」と頻りに偽ブランド物を勧められました。マニアックというものが分かって無いですね。偽物っぽいピカチューとかも探しましたが、完璧にコピーしてる。偽物っぽい方が良いのに、本当に分かってないなあ。
そして日が暮れ、夜のプノンペン。日中でも治安が良いとは言えませんが、夜は怖いというか危険です。最近も外国人を狙ったピストル強盗が多発していると知っていながら出歩いたのですが、襲われていたら日本で笑い者になれていたでしょう。当方が帰国してから、百人規模の武装集団が官庁を襲撃なんて事件も起きていますし、夜は出歩かない方が良いですね。まあ、そんな危機意識の高い人はプノンペンなんて旅行しないでしょうが。
着飾った娼婦の皆さんも多かったです。昼間、バイクの運ちゃんから「ジャパニーズガール、タカイ!バット、カンボジアガール、ヤスイ!」と度々勧められたのですが、娼婦の大半はエイズに感染しているので割に合わないと思います。安全なら買っちゃうんじゃないのと訊かれたら、正直なところ自信が無いかな。バンコクのところでも書きましたが、スラッとしていてスタイルが抜群な人が多いです。やはりこれが長粒種の力か。
そんなこんなで、何事もなく無事にホテルに帰還。併設されている食堂で遅めの晩飯。ご飯に照り焼きにしたチキンと野菜が添えられているものを注文。香辛料のクセがありますが、結構美味でした。昨晩と同じく、アンコールビールで乾杯。日本人には驚きかも知れませんが、ビールには氷が放り込まれます。海外旅行では生水を飲むなと言いますが、氷も元が生水の可能性が高いので要注意。気にせずにガリガリ噛み砕いて食べましたが。
プノンペンも二日目だけど、目的地が定まっていないのは昨日と同じ。取り敢えず、ホテルの食堂でオレンジジュースとトーストで簡単な朝食を摂りながら算段。その結果、悪趣味な当方の発案によりポル・ポト派による大虐殺の跡を観に行くことに決定。余談ですが、ここのオレンジジュースは搾りたてでホント美味でした。でも、これも危険行為なのですが、分かりますか。
バイクに跨り、最初に向かったのは薬局。実は前日の顔面大火傷は治るどころか、悪化してリンパ液だらだら状態でした。薬局のオバチャンにバイクの運ちゃんが説明すると出てきたのは、妙に大きい謎のカプセルと錠剤。「えーと、これ何の薬ですか。塗り薬とかはないの」と訊いたら、不服そうなオバチャンが次に取り出したのが、何と日焼け止めクリーム。「あのなあ、もう何でも良いわい、買ったる」。酷暑で思考が麻痺しています。
薬局を後に、怪しい路地に入り込んだ先にあったのが、通称「ポル・ポト博物館」とも呼ばれるトゥールスレン博物館。元々は高校の校舎だったのが反革命分子用の強制収容所にされたもので、収容された2万人の内、生還できたのは6人だけだそうです。ここでも地雷に脚をやられた乞食の皆さんが大挙して取り囲んできましたが、もはや慣れました。さっき買った日焼け止めクリームを塗って準備OKと思ったら、死ぬほど痛いというかしみる。やたらココナッツミルク臭いのも堪らない。何だかなあ。
痛みでのたうっていても仕方ないので、博物館のガイドさんに案内して貰う。最初は鉄製ベッドがある個室で、スコップが転がっているなあと見ていると、「ここの囚人はそのスコップでノドを突き破られて殺されました。その時の写真がそこ壁に掛かっています」って、絶句。他の個室も同様でしたが、、虐殺の写真を全て残すなんて普通の神経じゃないですね。次の建物に向かう途中、ブランコの枠のような物の下に水を張った大きい壺があったので訊ねたら、拷問のために逆さ吊りにして、頭から何度も水に突っ込んだそうです。何ともはや。
次の建物では殺された人々の写真が壁一面に並んでいて壮観というか、言葉を失いました。子供の数も尋常じゃなく、何の必要があって殺されたんだろうと柄にもなく思ってしまいます。囚人は全て名前を捨てられ番号で呼ばれていたのですが、写真の少年は番号を入れ墨で印されていました。もう笑えないったらありゃしない。別の部屋には囚人に作らせたボル・ポト像が飾ってありましたが、顔やネームプレートにペンキで×印が加えられていました。よく×印だけで済んでいると思います、ホントに。
最後の建物には拷問道具の数々とその道具を使っている場面を描いた絵が展示されていました。ポル・ポト派の非道を告発するのが目的なんでしょうが、ここまで来たら行き過ぎというか、ただの悪趣味に近いものがあります。極めつけだったのが、虐殺された人々の頭蓋骨で作られたカンボジアの地図。川や湖は血の赤色。供養のために花が活けらていましたが、本当にこれで良いのやら。
次の目的地はプノンペンから十数キロ、ポル・ポト関係では極めつけの場所であるキリング・フィールド。その名の通りポル・ポト派による大虐殺が実際に行われた場所です。バイクに揺られてプノンペンを出ようとした時にアクシデント発生。いきなり警察官から停止命令。運ちゃんと警察官が怒鳴り合って喧嘩を始めるも、クメール語なので意味不明。同行のW氏を乗せたバイクは気付かずに走り去っていく。「流石にこれはヤバいんとちゃうか」と焦る。
カンボジアの警察官は極めて薄給のため、外国人旅行者に難癖を付けて金を巻き上げることがあると予備知識では知っていたのですが、まさか自分も同じ目に遭ってるのかと大混乱。一体どうなることかと思っていると案の定、運ちゃん曰く「警察官にお金を渡せば通してくれる」。これ以上揉めても仕方がないので、500リエル札(約13円)を差し出したら、ニッコリ笑って通してくれました。レアな体験は望むところですが、こういうの体験は嫌だなあ。
警察官から解放されて、しばらく走ると一面の田園風景。何処までものどかで、わずか25年前、処刑される人達が大量に運ばれた道とは信じがたいものがあります。また逆に、この平和な風景とのギャップが「冗談のようなリアル」を浮彫りにしているようにも感じられました。途中には地雷や砲撃で深くえぐられた道が散見され、内戦は終わっても本当の意味での戦争は終わってないのかなと。
その後、W氏とも何とか合流できて、さらに田舎道を疾走。風を切っていくバイクは爽快なんだけど、なにせ道が泥濘だらけのボコボコでかなり怖い。もちろん、カンボジアの人達は慣れたもので滅多に転けることはないのですが、やたら上下左右にバウンドするので気を抜くと振り落とされそうになります。目的地に着く頃には、手掛かりである後部荷台を掴んでいた腕がヘトヘトになりました。
そんなこんなでキリング・フィールド到着。鉄条網で囲まれたそこはただの野原。そこにぽつねんと建つ慰霊塔。何が祭られいるのかなあと見てみると、骨、骨、骨、骨の山。慰霊塔の中には十数段の棚が設けられていて、何故か頭蓋骨だけが山と積まれていました。その数はなんと約9000個だそうで、壮観というか何というか。ポル・ポト博物館にあった頭蓋骨を組み合わせたカンボジア地図といい、カンボジア人の感覚って一体。
慰霊塔の後ろにはそこらじゅう掘り返した跡があって、その全てに虐殺の犠牲者が埋められていたそうです。やたら穴がある以外は普通の田園風景なんだけど、立看板に書かれた「この穴からは首のない死体が166体発見されました」とかを読むと薄ら寒くなってきます。最初は「その辺を掘ったら、骨が出てくるかなあ」とか不謹慎なことを言っていたのですが、自然と口数も減っていきました。あと、実際に掘れば高確率で骨が出てくるそうです。
キリング・フィールドのインパクトに打ちのめされたというより、相変わらずの酷暑にふらふらになりながら、プノンペンを目指して田舎道をバイクはひた走る。ポル・ポト時代、この道を戻ることが出来た人はどれぐらい居たんでしょうね。この長閑な風景が強烈な皮肉です。アウシュビッツの入り口に掲げられた「労働は自由に通じる」という言葉思い出しました。これも最悪の皮肉。こちらも生きて戻れた人がほとんど居なかったのは御存じの通り。
約30分でプノンペン帰還。休憩と昼食を兼ねて「どこか安くて美味しい物が食べられる所を教えてくれ」と言って、連れていかれたのが、ロシアンマーケット。適当に作られたとしか思えない木造の店舗が所狭しと建ち並び、1メートル幅のグネグネした通路が入り組み、屋根も低い。これは迷路というか、出火したら皆んな死にます。売られている物も貴金属や骨董品から、違法コピーのソフトまでと、怪しくて楽しい。
取り敢えず昼飯でしたが、こんな所で食べる外国人が珍しいのか、メシ屋のオバチャン達も不審気。当然、英語なんて通じないので、並んでいる鍋からチキンカレーとライスを指差して注文。バンコクでもカンボジアでもカレーばかりでした。バイクの運ちゃんに生野菜に謎のペーストを塗ったものを勧められたが、謎な味でしたそういえば、この頃には生野菜や果物を平気で食べるようになっていましたが、良い子は真似しないように。
腹も落ち着いたところで、お土産を物色しようと思いたったが、今一つマニアックな物が見つからない。バンコクで見かけた藤崎詩織モードのプレステは望むべくも無いというか、Winソフトのコピー物ばかり。Photoshopが5ドルで売っていたのには心が動かされたが、ちゃんと動くのか怪しいです。無難なところで、カンボジアの伝統音楽と『Jazz
買い物を終えて、最後の目的地である国立博物館へ向かおうと思ったのだが、開いていない。前にも書きましたが、カンボジアでは余りの暑さのためか公共機関だろうが、午前11時頃から午後2時過ぎまで休むようです。その間、皆さんが何をしているかというと、木陰で昼寝。気持ち良いというより、夏場の動物園の白熊という感じ。こちらも庇の下に入って、ぐったりごろごろ。
国立博物館の近くにある寺院が歴史があると、運ちゃんが言うので暇つぶしに見に行く。確かに古そうだが、何か変。突然、線香片手の怪しげな老人が寄ってきたと思ったら、「ナカタ、ナカタ!」と連呼。「ああっ日本人だから中田か、サッカーの中田ってカンボジアでも有名なのか」と思ったのだが、老人が指差す方には何故か墓らしき物体。書かれていた名前は中田厚仁。中田違いで国連ボランティア参加中に射殺された中田さんでした。線香を供えて合掌。
こちらが中田さんを知っていたので御満悦な老人。カンボジアでは有名な日本人なんでしょうか。「お堂の仏像も見ていけ、写真もOKだ」と言いながら、奥でゴソゴソしだしたと思いきや、ピカピカ輝きだす電飾の後光。えーっと、これって御利益有るのか。呆れるこちらはお構いなしで、次々と発光させて幸せそうな老人。自慢なんだろうか。仕方なく付き合った後に差し出された手。あまりのトホホさに忘れていたが、こういう国だったなあ。ネタ料として500リエル札(13円)進呈。
時間も頃合いになったので、やっと最後の目的地、国立博物館へ。巨大なクメール様式の建物自体、見応えがありますが、展示されている彫像の数が凄い。右を向いても左を向いても、シヴァ神とヴィシュヌ神ばかり。最もメジャーなヒンドゥー教の神様なのは知っていますが、多神教なんだからもっと多様性があっても良さそうなものですが。ドラクエもFFも結構だけど、MOTHERも忘れないでねという感じでしょうか。
他に目立ったのが、巨大なリンガ(男性器)とヨニ(女性器)。宗教や民俗学に興味があり御存じの方も居られるでしょうが、性器型の石像です。亀頭の下にシヴァ神の顔が彫り込まれている物もあって何ともシュール。有難い物なのでしょうが、「性器に○○とか埋め込む人もいるからなあ」と罰当たりな連想をした当方はアホですね。陽物信仰は日本でも認められますが、共通のルーツを持っているのかな。
そしてW氏とお別れ。仕事の都合上、当方は明日には帰国する必要があったので、ここで解散。ここからは初日以来の一人旅です。何処からともなく現れた戦傷乞食の皆さんに取り囲まれながら、お別れの言葉を取り交わす。いつも通り「んじゃ、またね」。W氏は陸路でタイ・カンボジア国境を越えるつもりらしい。まだ地雷除去が終わっていないような地域と知って挑むのは、流石というかアレというか。
W氏と別れ、バイクはプノンペンの玄関口であるポチェントン空港へひた走る。これでカンボジアも見納めかと思うと感慨深いものがあります。空港に着くまでの30分程、運ちゃんとたわいもない話をしながら景色を目に焼き付けていく。シェムリアップ空港が田舎の無人駅のようだったに比べ、ポチェントン空港は国際空港っぽい感じでした。ただし、あくまで「っぽい感じ」であり、大きさは日本の地方空港よりも小さい程度でした。
運ちゃんと別れ、国際線へ行こうとしたら、デカいライフルを持った警官に呼び止められる。「何処へ行くつもりだ」、「えーと、バンコクなんですが」、「こっちで合っているよ」。親切心からなんでしょうが、怖いったらありゃしない。出国手続きを済ませ待合室へ行くと、搭乗ゲートが二箇所しかない。これでカンボジア最大の国際空港なんですよね。まあ、バンコクかホーチミン行きが大部分だから問題無いのでしょうが、日本人の感覚とのギャップは大きいです。
1日目にバンコク入りした時には、「大変なところに来てしまった」という感慨を抱いたものですが、カンボジアから戻ると「先進国に帰ってきたなあ」と思えるから不思議です。入国審査後、国内線口でタクシーをつかまえホテルへ。カンボジアでは700円の宿に泊まっていたのに、こちらは何と6,000円。何だかリッチな気分になり、調子に乗って日本へ国際電話、「どうも生きています。明日帰ります。電話代がもったいないから、またね」。全然リッチじゃないですね。
後は翌朝の飛行機で帰国するだけですので、カンボジア日記はこれにて〆です。初めての海外旅行として、色んな意味で忘れられない旅になりました。機会があれば、またカンボジア、特にアンコール遺跡に行きたいですが、今度はもう少し安全でリッチな方が良いかも。今回の旅行は綱渡りの部分が結構あり、日記としてはネタに困りませんでしたが、本人には笑えない状況も多かったですから。

 

戻る

キャッシュワンのサイトです。

キャッシュワンのサイトです。